〜社寺建築☆美の追求〜 大岡實の設計手法  大岡實建築研究所
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大岡實を支えた人々
大岡實が新築設計活動に入って、生涯に100棟以上の建物を設計しているのであるが当然ながら大岡實一人で行ったわけではない。不遇の時代から設計の仕事を世話した一高時代からの旧友である小野薫氏や清水一氏の友情もその支えの大きな一つであったであろうし、その他大勢の人々の支えがあって、これだけの業績を残すことができた。

設計業務を支えた方たちである。
意匠設計助手としては、田島美穂氏、奥義弘氏、松浦弘二氏、安田昭二氏。
構造設計者としては、小野薫氏、田中尚氏、日下部東一郎氏、佐治泰次氏、
田口武一氏、安藤範平氏、松本曄氏、服部範二氏。

意匠設計助手は、社寺建築全般について精通していることは勿論のこと、大岡實の描くスケッチからそのデザインの意味するところを確実に汲み取り、素早く図面化していくことを求められた。
わずかな線の違いが建物全体のイメージを損なうこともあり、図面の書き手にもデザインセンスがなければ、大岡實の要求に応えられなかったであろう。
また、大岡實は作図されたものをみて、さらに改良したスケッチを描き、図面化させる。
またさらにそれを改良したスケッチを描き、図面化させる、と納得のいくまでその作業を繰り返した。作図のスピードと根気がなくては、ついていくことができなかったであろう。

大岡作品のほとんどが伝統的木造形式の鉄筋コンクリート造建築物である。
構造設計者に求められたのは、意匠図に描かれた線と形を決して変えてはいけないことである。さんざんの苦労の末にたどり着いた形態を弄ることは断じて許されなかった。
その条件の中で、鉄筋コンクリート造による構造計画を求められたのである。
また、大岡實は構造的に意味を持たない意匠部材を排除したいという思いから、意匠部材を積極的に構造材に利用するように構造設計者に指示を与えた。今までにない架構のアイディアなくして、要望には応えられなかったであろう。

以下では、最初期に大岡實の右腕だった助手田島美穂、そして長年に渡り多数の作品にかかわった助手松浦弘二(大岡實逝去後は大岡實建築研究所長として跡を継ぎ、生涯設計活動を継続した)と構造設計者の松本曄について紹介する。
助手 田島美穂(よしお)について
田島美穂は、1910年富山県東砺波郡(現砺波市)に生まれ地元の学校を卒業後、京都に出て京都工学校建築学科へ進学した。1928年に卒業し、東京松井組(現松井建設)に入社して社寺建築設計者としての基本を学んだ。
1934年に棟梁松井角平より、規矩術など社寺建築の技法習得を認める修了証書を授与されている。
その後松井建設を退社し京都府の学務課社寺課に勤務する。
そして東京合資会社社寺工務所に入社し、本格的な社寺建築設計に従事する。
文化財建築物の調製図面の作成や新築神社の設計が主な仕事となった。
社寺工務所での設計では、新築物の構造が木造だけではなく鉄筋コンクリート造も採用していた。

この時代の日本は、中国大陸への進出を拡大していく時期であった。1941年田島は社寺工務所を退社し、中国大陸の北支天津神社造営奉賛会技師に着任した。設計者の立場から神社側の立場としての活動をした。
造営終了後も家族と北支天津市に留まり、自らの田島建築事務所を主宰した。
そして終戦を迎え、家族を連れ日本に引き揚げた。故郷の富山県に戻り、農業に従事した。

しばらくして1948年に東京松井建設株式会社に再入社した。そして東京浅草寺側の担当者である復興事務局技師となった。
なお設計者に決まったのは大岡實だった。田島と大岡はここで出会うこととなった。本堂の再建は鉄筋コンクリート造と決まったが、お寺サイドにも鉄筋コンクリート造の社寺建築に精通した田島がいたことになる。

浅草寺本堂の設計は順調に進んだが、お寺の土地問題などから着工が遅れることになった。
1950年には大岡が一時身を置いていた双亜建築株式会社に入社した。いきさつは不明だが大岡・田島・松浦の3人が双亜建築で顔を揃えたのである。

そこで田島は大岡の助手として、光厳寺(富山市)本堂新築設計(鉄筋コンクリート造)、清水寺(長野市松代町)本堂新築設計(鉄筋コンクリート造)、井草八幡宮(杉並区)文華殿新築設計(鉄筋コンクリート造)に従事した。
1951年には、いよいよ浅草寺本堂の工事が始まり、その監理業務も担当した。
しかしまもなく肺結核を患い、故郷の富山県に戻った。
療養を続けながら、大岡實の依頼により富山市に建設中だった光厳寺本堂の監理業務に就いていたが、1952年8月わずか42年の生涯を閉じた。

追記;平成26年、当ホームページをご覧になった田島美穂氏のご家族から
   連絡を頂きお会いすることが出来ました。その時に行ったインタビューと拝
見した資料及び図面等から本文を作成しました。

助手 松浦弘二について
松浦弘二は1915年生まれ、1900年生まれの大岡實とは15才違いである。
父親の松浦愛一郎は宮大工棟梁で、その次男として10代より大工修行に励み、技術を習得した。20代にはいると日中戦争が勃発、すぐに召集を受け中国に出征、軍施設の建設部門に配属された。その後除隊、現地にて建設業にかかわり、鉄筋コンクリート造など多種の構造建築物に接する機会を得て、技術者としての幅を広げていった。そして再召集、敗戦、捕虜生活の後に帰国した。
帰国した日本では戦後の建設ラッシュとなっており、技術力を買われて新興の建設会社などから勧誘を受けた。そのひとつが双亞建築株式会社であり、そこで大岡實と出会うこととなった。
大岡實はそのころすでに浅草寺から本堂再建の依頼を受けており、鉄筋コンクリート造による社寺建築の設計を手掛け始めた時であった。設計には自分の考えを具現化してくれる協力者が必要であるが、伝統的社寺建築に精通する宮大工では鉄筋コンクリート造は理解できない。また鉄筋コンクリート造を習得している技術者には、社寺建築が分かるものがいない。大岡實の悩みはそこにあったと想像される。
したがって、宮大工から始まり、鉄筋コンクリート造、鉄骨造などの技術を習得している松浦弘二は、大いに役立つ存在に見えたであろう。
また松浦弘二は、父親から棟梁になるための英才教育を受けている。宮大工棟梁は施工者であり、設計者であるため、当然図面を描く技術が要求される。10代の頃から作図は勿論のこと、架空の条件で鐘楼を設計するなどの設計課題を与えられ、ケント紙に烏口で墨入設計図を作成している。このような素養が備わっていたため、大岡實の設計助手がスムーズに務めることができたのであろう。
その後、大岡實建築設計室(大岡實建築研究所の前身)の設立にむけて大岡實からの誘いに応じ、出自の社寺建築に特化した設計の道に入ったのであった。
その後35年間、大岡實が亡くなるまで助手を務めあげ、150棟余りの建物の設計に携わった。

構造設計者 松本曄について
松本曄は、昭和6年中華民国上海にて出生。その後上海事変が始まり、父親の郷里福岡県小倉市に帰国。小学生時に上京、昭和20年新宿で空襲により焼き出された。そして戦後に国がすすめていた戦災者による北海道開拓に応募。帯広農業高校を卒業して、再上京した。
大岡實が教授を務めた横浜国立大学建築学科に入学、構造研究室を昭和31年に卒業して、阿部建築事務所に就職した。
松本曄は、学生時と就職後も大学の助手池田昭男と連名で建築学会に論文を発表している。
設計事務所に所属しながらも研究室とのつながりは強く、また昭和36年から横浜国立大学工業教員養成所非常勤講師を44年まで兼務している。
構造研究者と構造設計者、教育者の三役をこなしていた。
大岡實は国立大学の教授でありながらも、次々と舞い込む社寺建築の設計依頼に精力的に取組んでいた。
構造設計については当初、東京帝大の同級生だった小野薫に委託しており、小野の東大での助手、田中尚、佐治泰次が設計に参加している。
また安藤範平は東大武藤研から横浜国大の助教授となり、小野薫のもと興福寺国宝館の設計に携わった。しかしその途中に残念ながら小野薫はこの世を去ることとなり、安藤範平が後任となった。
その後も松前城天守、伊豆霊友会弥勒山伽藍一式の構造設計を安藤範平に委託されるが、その実務を担当したのが、阿部建築事務所にいた教え子の松本曄であった。
安藤範平が横浜国大より山下寿郎建築事務所に転出した後は、松本曄が後任となり、益々多くの構造設計委託を受けることとなった。
一方松本曄は、阿部建築事務所において、新宿東宝会館をはじめとする東宝関連の建物や明治製菓、明治乳業関連の建物を多く手掛けている。
その後松本曄は、阿部建築事務所を退社して松本構造設計事務所を設立、本格的に大岡實建築研究所の構造設計を担当するようになり、亡くなるまでに60余りの建物に携わった。
ここに大岡實と原寸検査に立ち会う松浦弘二、松本曄の姿が残っている。
現寸場での大岡(みのる)(椅子)と松浦弘二(ひろじ)(その右)
大岡實と松浦弘二(左)/後列左は越川辰蔵(たつぞう)氏(原寸師(げんすんし))、右は松本(ゆう)氏(構造設計)

1981年川崎大師平間寺八角五重塔の原寸検査にて

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