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浅草寺本堂(東京都台東区) |
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江戸時代に建てられた旧本堂が戦災で焼失し、その再建に向けて復興協賛会が設立され、大岡實はその処女作である浅草寺本堂の設計を依頼されることとなる。
まず、設計を依頼された経緯を「昭和本堂再建誌(昭和33年浅草寺発刊)」からみてみよう。
「新本堂の設計及び工事監督は、当初から伊東忠太氏を煩わすことに定めてあった。氏は去る昭和八年の本堂大修繕に当り、顧問として尽力された縁故に依り、当山観音堂については、細目に亘って熟知されている本邦仏堂建築の権威者であったからである。然し今回は氏も巳に高齢となっておられたので、実際上の面はその門下然るべき人物に担当せしめることと致したい、とのことで、工博大岡実氏を紹介せられた。大岡氏は、多年法隆寺の修築を管理されていた仏堂建築の権威者であったが、遇々、氏の不在中に、同寺の金堂に事故を生じたため、首長としての責を負って閑地に在ったわけであるが、浅草寺本堂の新築と言う、後代に伝わる事業を主管する新任務を迎えて、恩師の指令もあり、これを快諾せられたわけである。」(P31)
また、当時の大岡實の置かれていた状況について「大岡先生を偲ぶ(昭和63年財団法人文化財建造物保存技術協会発刊)」の中で関野克氏が以下のように書いている。「起訴中は休職となり手当は全くなく、インフレ当時の先生のお困りは大変であったと思われる。先生の蟄居時代には小野、清水両氏の友情で浅草寺本堂の戦災復興の設計に当られ、以後建築事務所を開かれたのであった。」(P4)
これからすると、一高時代からの親友であった小野薫氏(元日大教授)、清水一氏(元大成建設設計部長)の伊東忠太への働きかけがあったとも考えられる。
そしてこのような背景を契機にして、大岡實は「終戦後復興される社寺建築を見ると余りにも日本古建築の真髄を無視した建築が多いので、永年にわたって身につけた技術を社会に奉仕しなければ申し訳ない」と考えるようになり社寺建築の設計に乗り出すが、伝統的な寺院の様式を踏襲し他方ではこれに近代的な構造法をどう適用するかが大きな課題となり、「構造が全く変わったのであるからその材料・構造の特質を生かした、形も全く新しい形にすべきである」と考えるのである。(「有鄰」昭和52年12月10日 川崎大師の諸建築より)
ここで「近代的な構造法」とは鉄筋コンクリートを用いて伝統的社寺建築の形態を実現することを意味している。木造でなくて、なぜ、鉄筋コンクリートなのか、この点について上記の昭和本堂再建誌の中で次のように述べている。
「人々の浄財によって造られる宗教建築が一度の火災によって烏有に帰し、又々巨大な財力を集めなければならないという様な事は技術家としてなすべきではない」と述べ、「再びこのような材料は集まらないと同時に費用も大へんな額になるわけで、構造は費用・防火の点から木造でやるべきではない」とまで言い切っている。そして「意匠も形だけの部材を出来るだけ排除したもの」としている。それは何といっても法隆寺金堂火災事件が大きく起因しているのだが、この防火的にも耐震的にも優れた「近代的な構造法」を用いた形態の追求が大岡實建築研究所の意匠上の特徴となっていくのである。
さて、浅草寺本堂は大岡實の処女作であり、鉄骨鉄筋コンクリート造の寺院である。なぜ木造でないのかという点については上記に述べた通りであるが、別稿で指摘したように木材の火災に対する脆さと材料の逼迫、市街地での耐火・防火機能という法律上の制約、建物が大型化し、木造で造る場合のバランスで軒を出そうとしても木造では強度的に限界があり、望む形を造ることができないなどの理由があることは言うまでもない。
そして浅草寺本堂では寺側から江戸においてもっとも民衆的であり、下町情緒豊かな浅草という土地の中心的存在としての旧本堂(江戸時代)の外観の復元を強く依頼されたこともあり、伝統的な日本の社寺建築の形式を踏襲した伝統的木造社寺形式をそのままコンクリートで再現するにとどまらざるをえなかった。(この点については同じ「有鄰」の中で「浅草寺は、柱、梁、束による日本的構造であり、純然たる日本様式を採用した」と述べている)しかし、やはり上記の昭和本堂再建誌「所感-設計監理について-」では次のようにも述べている。
「全体としてはボッテリした江戸時代建物の感じを出すべく努力した。しかし永年日本の古い建物に親しんできた私には組物や軒廻りや部材の比例等においては江戸時代そのままを再現する気にはなれず、その間に鎌倉時代や奈良時代の形式を取入れてまとめあげたのである。即骨組の大きさの比例や細部においては古いゆったりとした感をねらったのである。そして江戸時代の華やかさは装飾や飾金具で出す計画を立てたのであって、将来は長押、柱等に更にはなやかな装飾を附することが望ましい。」(下線は引用者による) |
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それでは「ボッテリ感」とはどのようなことをいうのであろうか。大岡實はその著作「日本の建築(平安時代建築の性格)」の中で、醍醐寺五重塔について「ぼってりしたやわらかさのなかに、日本人のおだやかな性格からでてくる造形感覚が、濃厚ににじみでているように思う」と述べている。 |
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醍醐寺五重塔
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「ボッテリした江戸時代建物の感じ」とは醍醐寺の五重塔に見られるような「ふくよかさ」であり「ふわっとしたやさしさ」であろうか。そして浅草寺本堂ではこうしたボッテリ感の中にも軒反りや屋垂みといった曲線から構成される大屋根は、組物や軒廻りや部材の比例等と相俟って飛鳥・奈良朝のゆったりとした穏やかなものとなっている。(末尾の参考1.各時代の軒反り(茅負曲線)の傾向を参照のこと) |
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平成23年のリニューアル工事も完了し、妻面は華やかな印象を与えている
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大瓶束も加えた二重虹梁蟇股式/猪目懸魚
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組物は和様の三手先斗拱で柱と大斗の納まりは木造の形式をそのまま再現している
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妻飾りからするとスッキリとした小壁となっている
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正面立面図
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側面立面図
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一階平面図
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屋根伏図
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断面図
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鉄骨軸組図
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さて、ここで旧本堂と新本堂を比較してみよう。 |
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昭和20年焼失の浅草寺旧本堂
(木造)
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現在の浅草寺本堂
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(旧本堂の写真はインターネットの「浅草寺旧本堂の写真」他より)
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次に図面上で比較してみよう。(図面は「建築史学者・大岡實の社寺建築設計」という研究課題で、初め
て大岡實のコンクリートによる社寺デザインを取り上げた、横浜国立大学大学院の山田なつみ氏の修士論
文より)
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旧本堂
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中備は蟇股/軒先は両端で急勾配で反り上がっている/台輪が廻っている
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現本堂
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中備は間斗束/和様の三手先斗拱となっている/ 降棟の下がりが少ない/妻の入りが大きい
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旧本堂
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妻面は非常に沢山の装飾が施されている/屋垂み(屋根の棟から軒先への曲線)は直線的で覆いかぶさるようになり、重苦しい感じの屋根となっている
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現本堂
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軒先は真反り(総反り)となっている/屋垂みの曲線は曲率が大きく滑らかであり、軽快な感じとなっている/海老虹梁は省略、手狭みも簡略化され、屋根の軽快感と相俟ってゆったりとした感を演出しているようだ
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さらに断面で見てみよう。 |
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上段が旧本堂、下段が現本堂である
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上段が旧本堂、下段が現本堂である
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旧本堂に比べて現本堂は基壇(足元)から軒先までの高さ寸法が、軒先から大棟天端までの高さ寸法に対して小さくなっている(軒の出が大きくなっている)こと、屋垂みの曲線の曲率が大きく(ゆったりと)なっていることがみてとれる。また、大棟の反りも軒先と呼応し、軒先は真反り(総反り)となっている
ところで施工面について大岡實は上記の昭和本堂再建誌の中で次のように述べている。「鉄骨鉄筋コンクリート造に決定し後の実際の工事については相当な困難が横たわっていた。というのは過去においてこの様な大規模な木造形式の大建築は類が少なく、やや比較し得るものは東本願寺の本堂位であり、其他湯島聖堂等小規模なものであり、又その建てられた時期も大分前の事で今の施工技術とはかなり変化があって、極端に言えば総てが新しい試であると言ってもよい程で、私としても迷った点も少なくない。故小野薫博士を構造の担当者にして色々苦心の結果今日大過なく完成したのを見てほっとした気持ちである」 |
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ここに当時の施工写真がある。 |
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大屋根の隅部分の型枠工事
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大岡實博士文庫書類資料目録U(新築設計関連資料) 川崎市立日本民家園編より
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また、末尾の資料2に日本における初期のコンクリート造の社寺建築事例を一部転記したので参考にされたい。 |
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こうした経緯を経ながら昭和26年5月19日に本堂再建起工式を執り行い、昭和33年10月17日に浅草寺観音本堂落慶記念開帳をしている。
平成23年にはリニューアル工事も完了し、同じく昭和本堂再建誌の中で大岡實が述べている「この本堂が古い江戸の名所浅草の一つの中心的建物となるならば望外の幸である」という思いが、今日現実のものとなっていることは全くもって喜ばしいことであり、と同時に今後も末永く続いていくことを願ってやまない。 |
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年月 |
西歴 |
工事名 |
所在地 |
工事期間 |
助手 |
構造設計 |
施工 |
構造種別 |
昭和26 |
1951 |
浅草寺本堂 |
東京都台東区浅草2-3-1 |
昭和26〜29 |
田島美穂 |
小野薫・日下部東一郎 |
清水建設 |
SRC |
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浅草寺境内案内図
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浅草寺ホームページより
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浅草寺ホームページ
http://www.senso-ji.jp/ |
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より大きな地図で 大岡實建築研究所 建築作品マップ を表示 |
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なお、文中の鉤括弧(かぎかっこ)の部分は文中で示した資料や大岡實著作並びに寄稿他から引用したものです。 |
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参考1. 各時代の軒反り(茅負曲線)の傾向 |
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上から奈良時代/鎌倉時代/室町時代/江戸時代 (「日本建築の意匠と技法」日本古建築の特質 より)
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参考2. コンクリート造の社寺建築(初期の建築例) |
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着工年月 |
竣工年月 |
寺院建築名 |
所在地 |
設計者 |
明治42.08 |
明治44.01 |
可唾斎護国塔 |
静岡県袋井市 |
伊東忠太 |
明治45.07 |
大正04.04 |
函館別院本堂 |
北海道函館市 |
伊藤平左エ門 |
大正06.05 |
大正07.05 |
日泰寺仏舎利塔 |
名古屋市千種区 |
伊東忠太 |
大正11.09 |
大正13.03 |
長源寺本堂 |
山形市七日町 |
峯田 某 |
大正12.04 |
大正13.11 |
明光寺本堂 |
福岡市堅粕町 |
木田保造 |
大正12.05 |
大正15.10 |
明源寺本堂 |
東京都墨田区 |
豊田工務 |
大正13.09 |
大正14.10 |
梅窓院本堂 |
東京都港区 |
矢部建築 |
大正13.10 |
大正14.04 |
大覚寺心経堂 |
京都市右京区 |
藤井厚二 |
大正14.02 |
大正15.02 |
松蔭時経蔵 |
静岡県沼津市 |
北島某 |
大正14.10 |
大正15.12 |
仁和寺宝庫 |
京都市右京区 |
天沼俊一 |
昭和02.03 |
昭和03.09 |
西岸寺本堂 |
東京都文京区 |
瑩光社 |
昭和02.11 |
昭和06.10 |
青松寺本堂 |
東京都港区 |
三輪幸左エ門 |
昭和03.01 |
昭和03.11 |
長林寺本堂 |
栃木県足利市 |
小林福太郎 |
昭和03.04 |
昭和04.05 |
神戸別院本堂 |
神戸市生田区 |
大谷尊由 |
昭和03.07 |
昭和05.04 |
金剛峯寺震災霊牌堂 |
和歌山県伊都郡 |
武田五一 |
昭和03.07 |
昭和08.03 |
金剛峯寺金堂 |
和歌山県伊都郡 |
武田五一 |
昭和03.12 |
昭和04.10 |
本久寺本堂 |
東京都墨田区 |
住職案 |
昭和04.02 |
昭和04.12 |
西光寺本堂 |
京都市東七条 |
大林組 |
昭和04.02 |
昭和04.12 |
法乗院?王殿 |
東京都江東区 |
河田徳正 |
昭和04.02 |
昭和06.09 |
妙行寺報恩塔 |
千葉県市川市 |
柴垣鼎太郎 |
昭和04.04 |
昭和05.09 |
西徳寺本堂 |
東京都台東区 |
島田藤吉 |
昭和04.11 |
昭和06.10 |
清水寺本堂 |
静岡市音羽町 |
古宇田 実 |
昭和05.03 |
昭和05.10 |
清雄寺納骨堂 |
東京都墨田区 |
住職案 |
昭和05.03 |
昭和07.03 |
専勝寺本堂 |
東京都台東区 |
島田藤吉 |
昭和05.05 |
昭和06.03 |
俊朝寺本堂 |
東京都港区 |
三輪幸左エ門 |
昭和05.05 |
昭和06.06 |
西教寺本堂 |
横浜市中区 |
横山虎雄 |
昭和05.05 |
昭和06.11 |
明顕寺本堂 |
広島県高田郡 |
水吉省三 |
昭和05.07 |
昭和06.09 |
陽岳寺本堂 |
東京都江東区 |
渡辺虎一 |
昭和05.07 |
昭和07.02 |
浅草寺一山支院 |
東京都台東区 |
岡田信一郎 |
昭和05.09 |
昭和06.12 |
久昌寺本堂 |
茨城県常陸太田市 |
木田組 |
昭和06.01 |
昭和07.06 |
真福寺本堂 |
東京都港区 |
住職案 |
昭和06.01 |
昭和07.06 |
真福寺庫裡 |
東京都港区 |
住職案 |
昭和06.03 |
昭和06.12 |
東園寺本堂 |
宮城県塩釜市 |
青池 某 |
昭和06.04 |
昭和07.11 |
醍醐寺宝庫 |
京都市伏見区 |
大江新太郎 |
昭和06.04 |
昭和09.04 |
大光院開山堂 |
群馬県太田市 |
伊藤藤一 |
昭和06.05 |
昭和07.03 |
長源寺観音堂 |
山形市七日町 |
山本鶴雄 |
昭和06.05 |
昭和07.10 |
勇山寺不動堂 |
岡山県真庭郡 |
県 技師 |
昭和06.07 |
昭和07.08 |
幡随院開山堂 |
東京都台東区 |
中野建築 |
昭和06.10 |
昭和09.06 |
東京別院本堂 |
東京都中央区 |
伊東忠太 |
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(築地本願寺) |
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昭和07.03 |
昭和07.12 |
宝生宝庫 |
名古屋市中央区 |
大江新太郎 |
昭和07.03 |
昭和08.03 |
行安寺本堂 |
東京都台東区 |
伊藤藤一 |
昭和07.05 |
昭和08.07 |
法昌院本堂 |
山形県諏訪町 |
金子清吉 |
昭和09.11 |
昭和14.11 |
東京別院本堂 |
東京都台東区 |
加賀谷祐太郎 |
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(浅草本願寺/東本願寺)
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コンクリート造の寺院建築(横山秀哉著)より
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