〜社寺建築☆美の追求〜 大岡實の設計手法  大岡實建築研究所
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薬師寺金堂(奈良県奈良市)
飛鳥・奈良調の軒反りが美しい
日本でも屈指の名刹である、南都七大寺の一つ薬師寺。昭和五十一年四月、その伽藍の中核をなす金堂がほぼ四百五十年ぶりに再建され落慶を迎えた。薬師三尊像や「凍れる音楽」といわれる東塔がひときわ光彩を放ち、これがまた堂に照り映えて、いまや伽藍全体に燦然たる白鳳の光が蘇った。
大岡實はこの薬師寺金堂では基本設計を成し遂げている。その設計過程や設計趣旨については昭和50年4月11日財団法人聖徳太子奉賛会発刊の「とみのおがわ 古寺再興 聖徳太子奉賛会」に大岡實が寄稿した「薬師寺金堂の再興」に詳しいので、これに沿ってその経緯を見てみたい。

南都諸大寺の復原的研究に専念していた昭和の初年に薬師寺伽藍の復原をしてから「数十年の後、昭和二九年頃になって、薬師寺金堂復原の議が起り、試に私にその図を書いて見るようにとの要請があった。私は永年の夢であるので勇躍してスケッチにとりかかった。最初の考えでは金堂の一階の礎石は明らかに創建当初のものが残っており、その全体の形は、東塔の三重目を取除いて横に引伸したような形であることは、大江近通が保延六年(一一四〇)七大寺巡礼私記で「金堂、五間四面、瓦葺、重閣各有裳層、仍其造様四蓋也」と現地で目撃した形を書いていてくれるので明らかであり、容易に形をとりまとめられるものと思ったのであるが、実際書いて見ると実に形がとりにくく、若干惨澹してやっと何とか形にまとめたが、この複雑で異形の形態を実に巧にまとめ上げた設計者の手腕に改めて敬服したのである。もっともこれは裳階という概念にとらわれて、二重目の外側の母屋柱(裳階の柱でない、主要な柱)は一重目の外側の母屋柱から一列中に入った、いわゆる内陣柱が上に伸びて、これに裳階が付いていたと思い込んでいたのが、主な原因であるが、いずれにしてもこの特異形式をまとめ上げるのは容易のことではない。」(下線は引用者による/以下同じ)

しかし、それから十数年の歳月が流れ、「薬師寺金堂もスケッチを書いたまま終わるのかと思っていた」のである。

ところが、「昭和四五年頃になって、東大教授だった太田博太郎君から「薬師寺金堂の復原的再建が具体化したので、その基本設計をやってくれないか」という話があった。もちろん喜んでこれを引き受けた。いよいよ数十年来の夢が実現することになったのである。私の感激は此上なかった。」というように事態が大きく転回するのである。

この辺りの状況については薬師寺刊行の「薬師寺金堂落慶特集第二十九号」掲載の「金堂の再建 〜設計者の立場から〜」という太田博太郎氏の寄稿文に詳しいので若干引用したい。

薬師寺金堂を「立派な、御本尊にふさわしい建物にしたいというのが、橋本凝胤長老の宿願であった」のだが、太田氏は大学の学生のころ、薬師寺に泊まり込みで奈良・京都の古建築の勉強をした際の縁により、この金堂の復興について長老・管長から何かとその相談を受けていた。結果、高田好胤管長からは「万一、火災になって御本尊に損傷があっては申訳ない。この点を考慮して、木造でやれ」という厳命と「復興であるから、当初の姿に戻せ」という条件が出され、その再建の設計を依頼されたのである。
そこで「三尊を不燃性のもので囲み、その外を木造にという」方法を探る採用する。「内陣部分を不燃性の鉄筋コンクリート造とし、正面の扉も厚い鉄製のシャッターとし、火災時には閉じられるようにしても、平面的には復原と矛盾しない。(理由は後掲の通り/筆者注)しかも本尊は金銅仏であるから、木彫と違って、閉鎖された内部の温度が多少上がっても、黒焦げになることはない。」
そして「これを単なる四角な箱にせず、上方を尖った形にすることを考えた。」のであるが、「これは、周囲の木造部分にはドレンチャーを設けて火災の対策は講ずるものの、余り長く焼けると内陣に影響を及ぼさないとも限らぬし、東塔への延焼の恐れもある。したがって、万一焼けた場合にも、勾配のあるコンクリートの内陣屋根をすべって上の部材が下に落ちてくれれば、消防上も有利となるからという考え方に基づいたものであった。」(下記の断面図参照)
「こうして基本的な構造はきまったが、創建当初に復元するとなると、話はそう簡単ではない。もちろん昔のことであるから設計図が残っているわけではないし、室町時代になくなった建物の写真があるわけでもない。しかし、昭和九年に法隆寺の修理が始められてから、それまで全くわからなかった平安以前の建築手法が解明されるようになった。その仕事に直接携わっておられた大岡実・浅野清両氏はなお健在であり、棟梁の西岡常一さんも元気である。この際ならば、できるかぎりの復原も可能である。そこで建築設計委員会は大岡・浅野両氏に、長年、文化財の建造物課長をされた関野克さんに加わって頂き、古代史の専門家として井上光貞さんの御参加も願った。
この委員会で数回の討議を繰返し、大岡さんが基本的な図面を書かれ、それを十数回訂正してできたのが最初の基本設計図である。」
基本設計図/平面図
基本設計図/正面立面図
基本設計図/断面図(内陣の上方が尖っている/屋根は錣葺となっている)
さて、「とみのおがわ 古寺再興 聖徳太子奉賛会」の「薬師寺金堂の再興」に戻ろう。

「いよいよ復興委員会が発足し、建築小委員会は、浅野清博士、関野克博士、太田博太郎博士と私の四人が主な構成員として、相談しながら進めることになったが、実際の基本設計は私が当ることになった。」

「最初に建築小委員会で話し合ったとき、まず気のついたことは、上層(一階を慣例にしたがって初層とよび、二階を上層とよぶ)の主要の柱が初層から通っていると考える必要は全然ないということであった。普通の二階造りの構造のように土居盤(柱受けの材)を置いて柱を建てれば二重目の平面の大きさは自由になるということである。更に考えて見れば、永祚元年八月十三日夜の暴風に縁起は「為大風被吹落也」とあり、今昔物語には上層が吹き上げられて講堂の前に落とされ、しかも「片瓦一木不損」と言って薬師三尊の徳をたたえている。これは明らかに一重と二重が別構造であったことを示しているのである。既に昭和初年の論文で「上層だけが吹き上げられたということは、二重二閣であった金堂の構造を暗示しているように思われる」と書いておきながら、二九年の時はそれを忘れて一重目の柱を通したために苦労したのである。特に初層の柱を上に通すと上層の奥行が非常に狭くなって困ったのであるが、上層の平面の大きさが自由になれば形がややとり易くなったが、それでも二重目の奥行は比較的狭く、形をとるのに苦心があった。
さて二重目の柱間寸法が自由になったと言っても、それをきめるのには何等かの基準がほしい。今回実際に復元設計をするに当たって種々検討の結果、柱間寸法の決定には或基準の単位寸法のあることが判った。昭和初年の復原研究のときに初層の裳階柱の本柱からの出は、礎石間の実測からどうしても奈良時代の尺度で六尺二寸五分になる(奈良時代の尺度は最近まで用いられていた曲金より稍縮んでいて薬師寺金堂の場合礎石間を実測して得た寸法から出した平均値は九寸七分三厘位が一尺であった)ところが奈良時代建物の柱間寸法の決定には完数の用いられるのが原則で、端数があっても五寸どまりであるのが一般である。それで裳階の柱間に六尺二寸五分という端数のあるのに不審をいだいたが、昭和初年のときは「やや端数に過ぎる感じがないでもないが、中の間十二・五尺の二分の一と考えると、そう不都合ではない」と書いているが今回の検討で金堂の東西方向(堂は南面する)の中央の三つの柱間が前記のように十二・五尺で、その十分の一の一尺二寸五分という寸法が、単位の基準寸法であることに気がついた。中央の三柱間の両脇各々二柱間は奈良尺の一〇尺で、これは一・二五尺の八倍。(南北方向の四柱間も一〇尺)裳階の出六・二五尺は単位寸法の五倍である。
これによって金堂の平面寸法決定の基本を把握することが出来た。それで二重目の柱間寸法も、この基本によるべきであることは当然である。内陣柱を通したのでは上層が小さくて困ることが既にわかっているのであるから、上層の外側の母屋柱筋は内陣柱筋より外に出さなければならないのは当然で、その出す寸法は基準の一・二五尺の倍数とすべきことも当然である。それで基準寸法の一倍、二倍、三倍という風に、出す寸法を変えた図面を数種類書いて、小委員会で相談した結果一倍の一・二五尺を前後、左右に出した案が最も適当であるとの結論に達した。上層平面の全体の大きさはこれで決定したが、その柱間の数を何間にするかについても何枚か図面を書いて検討し、結局東西方向五間南北方向二間に決定した。」
東西方向柱間五間の案
東西方向柱間六間の案 東西方向柱間七間の案
南北方向柱間二間の案  南北方向柱間三間の案
正面左手から見る
正面(東西方向)
側面(南北方向)
「高さについては殆んど古い資料がない。唯縁起に「柱高一丈九尺五寸」とあるのが唯一の資料である。しかし薬師寺縁起の寸法は信をおき難いのであって、金堂初層の平面は礎石、敷石が創建のまま厳然と残っていて正確にその寸法を知り得るのであるが、縁起の寸法で、これに合致するものが一つもない。従って高さについても疑問があるが他に資料がないので、止むを得ず、初層側柱の高さを十九・五尺として図面を書いて見たところ、まずまずの比例でおかしくないので、この寸法によることにした。しかし後に金堂の高さが塔に比較してどうも高すぎるので、初めは柱の高さを十九・五尺とし、その上に五寸程の台輪をのせていたが、実施の寸法は台輪の上端までを十九・五尺にした。」

「軒の出については、基壇を発掘したところ、東塔の出と殆んど一致したので、東塔の軒の出を採用し、従って斗拱も東塔のものをそのまま採用した
一層の軒と二層の軒の間隔についても何枚もの図面を書いた末きめた。」
断面図(台輪の上端までの高さ十九・五尺/軒の出、一層の軒と二層の軒の間隔の検討)
薬師寺東塔の三手先斗拱
上層の屋根と裳階
初層の屋根と裳階
東塔と同様の三手先斗拱
「屋根の形についても資料がない。しかし図面を書いて見ると入母屋でなければ納まりがつかない。それと私自身は次の理論をもっている。すなわち廻廊内に独立して立つ金堂は入母屋で、廻廊が金堂の両脇に接続する場合は寄棟であるとする考えである。法隆寺金堂が入母屋であることは言うまでもないが、平城京で薬師寺以外廻廊内に立つ金堂は元興寺だけであるが記録から入母屋造であることがわかる。金堂に廻廊が連なる例で、屋根の形を考え得るのは先ず唐招提寺は問題なく寄棟であり、次は興福寺であって、江戸時代の古図であるが応永再建の規模を書いたと考えられる図に寄棟になっている。興福寺の再建は非常に保守的で堂の平面も形式も変えていないから創建から寄棟であると考えるべきである。東大寺も鎌倉の再建が寄棟であることは棟木の長さから考えられるし、行基絵伝の図も寄棟になっている。鎌倉再建が寄棟であれば創建も寄棟と考えられる。例は少ないが一つも例外がないし、このことは造形的見地からも考えられる。廻廊内に独立して立つ金堂は、より多く立体性が要求される。屋根は屹立する感じが好ましく、それには入母屋が適している。廻廊が両側に連なる場合は廻廊の長い屋根並列柱と融合的な屋根の輪郭線が望まれるのであって、寄棟が適当である。薬師寺金堂の場合も、もちろん入母屋以外にないと思うが、私の最初の設計では入母屋で、しかも錣葺にした。錣葺の屋根は上部が矩勾配(四五度)に近く、屹立性が強く、下方は四寸から五寸程度の緩い勾配であるために、穏やかな広がりを見せて全体に安定性があり実に巧な意匠であると考えているので錣葺にして見た。しかし小委員会で錣葺の資料がないところから普通の入母屋になった。猶普通の入母屋でも最初は屹立性のために勾配を強くしておいたが前述のように高さが高すぎるのを押えるために六寸程度の勾配に変えた。」
大岡實自筆の錣葺案
「再建金堂の構造についても幾つかの問題があった。先ず前述のように、金堂は創建の礎石は全部残っており敷石も後方の部分約三分の一は残っているので、この遺跡をどうやって保存するかの問題である。私は考えた末、礎石と礎石の間にコンクリート(くい)を造り(振動を与えないために、アースドリルで穿孔し、鉄筋を入れてコンクリートを注入した)その杙に梁を渡し、その中間、礎石の真上に柱を建てた。構造関係者からはなぜこの様な無理な構造にするのかと言われたが、遺跡を保存するにはこれより外になかった。」
各礎石間にコンクリート(くい)を造って梁を渡し、その中間、礎石の真上に柱を建てる構造
「もう一つの問題は全体をどのような構造にするかである。東塔との調和上少なくとも外部は木造にするという点では皆一致していたが、貴重な本尊を守るために内陣だけは鉄骨鉄筋コンクリートにすべきであるという意見と全部木造にして完全な防災施設をすればよいという意見とが別れた。内陣を不燃性の構造にすべきであるという意見は美術の保存関係から強かったし、われわれも、いかに完全な施設をしても木造は結局焼ける運命にあるからと主張して、内陣を不燃性にする案にきまった。
幸いなことに薬師寺金堂の場合、内陣柱(前述のように外側の母屋柱から一列中に入り、仏壇を囲む柱)の間に壁及び扉があったことが礎石の形式から考えられるので、内陣周囲に壁及防火の建具を入れた。開口部は、もちろん扉であった筈であるが、実用的には扉をつけると内部が狭くなって不便であるので、鉄扉を上に引上げるようにした。
なお、この内陣周囲に壁や建具があるのは最初に藤原京に建った時からの形式であって、創建の礎石も「本薬師寺」として残っているが、その礎石にも同じ手法がある。これによって今回気のついたことは、法隆寺金堂と併せ考えるとき、飛鳥時代から奈良時代初期にかけては内陣は非常に閉鎖的であって、唐招提寺のように内陣が開放的になるのは、奈良時代本期になってからであろうということである。
私は金堂の復原をするために、東塔の図面を何度も繰返して見ている内に、この建築があらゆる点で優れていることを発見した。全体的な意匠の優秀性は既に述べたが、細部においても優れている。私は三手先の組物では薬師寺が最優だと前から考えていたが、今度よく見ると細部に非常な神経を使っている。先ず壁付の組物は非常に肘木が長く、壁面にのびのびとした、おおらかさを与えているが、前方に出た尾だる木(組物の中で斜に出ている材)上の組物は比較的肘木が短く、間のびして、だらけた気分を出さないように配慮している。また前方に出る肘木の長さも、一手先のもの、すなわち大斗から出るものは長く、次の一手先上の小さな斗から出るものは短い。これは大斗は言うまでもなく大きいので同じ長さにしておけば出は短くなる。視覚的に同じ様な長さで出ているようにするために、このような配慮が必要である。ところが同じ奈良時代でも、唐招提寺の場合は、一手先も二手先も肘木の長さは同じで、このような細かい配慮は払われていない。また各部の規格についても、東塔の尾だる木の勾配は初層が四寸勾配で三重が四寸五分、二重はその中間の四寸二分五厘としている。其他寸尺決定に完数を用いる場合、或はっきりした比例関係をもたせているところが随所にある。すなわちこの設計者は非常に、細かい神経を使っているのであって、設計者として大いに学ぶべき点であると感じた。」
講堂から金堂背面を見る/金堂の左手が東塔、右手は西塔
そしてこの寄稿は次のような文章で締めくくられている。

「とにかくこのすばらしい建築を復原出来たということは私の人生の、最大のモニュメントであり、喜びに堪えない。唯、どこまで創建の規模を復原できたかと言う点になると心配で、謙虚な気持ちで批判を仰ぎたいと思っている。今後更に西塔、廻廊、僧房などの復原が考えられる。いつの日かは、華やかな薬師寺中心伽藍が再現するだろう。限りなく楽しい夢である。」
 
年月 西歴 工事名 所在地 工事期間 助手 構造設計 施工 構造種別
昭和45 1970 薬師寺 金堂 奈良県奈良市 昭和45 基本設計のみ 松浦弘二 RC部分 松本曄 池田建設 RC造・木造
 
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なお、この金堂が再建されるまで薬師寺にあった旧金堂(室町時代後期、寄棟造、桁行9間、梁行6間、本瓦葺)は興福寺仮本堂として昭和50年(1975年)に大岡實建築研究所により興福寺講堂跡に改造移築されている。
興福寺仮金堂/右斜め前方から(左)、右側面(右)  
 

共に斉藤昌昭氏撮影 

 
参考資料
薬師寺金堂の施工に当った棟梁の西岡常一氏が、基本設計を踏まえた実施設計の経緯について語られているので「斑鳩の匠 宮大工三代 西岡常一/青山茂」より引用させていただき、ここに御紹介する。

(西岡):大岡実さんの基本設計はできておるけれども、具体的に新たに実施設計というやつをそれらの実測調査(東塔の規矩・木割等の実測調査のことをさす)をふまえて、もういっぺんしてみよう、とそういうはなしやったんですな。
(青山):第一次の設計図というのは、大岡実先生のはじめの基礎設計をもとにして、浅野清先生と現場棟梁の西岡さんが、塔を実測調査したのを参考にしてつくられた実施設計ということですね。
(西岡):ところが東塔の図面と第一次の実施設計図とをくらべてみますと、金堂の棟の高さが塔の高さの六割五分ぐらいになるんです。そうすると、鴟尾をつけるとすれば、塔の露盤の下まで鴟尾がいってしまう。それは待てよ、なんぼなんでも東西両方に塔があっても、これではちょっと不均衡や。いろいろ考えた結果、東西両方に塔があるんやから、結局は塔の三重の屋根の下と金堂の棟とがつながるというのが伽藍として調和するやないか。高さとしてはそのくらいのもんじゃないかと思うて、だいたいそれくらいにして寸法を測ってみますと、約六割になるんです。塔のな。私はこういう考えをもっているんやがそれぐらいでどうでっしゃろうか、ということをいいましたら、大岡先生が第一番に賛成されて、そうだぼくもそう思っているんだ、第一次の実施設計ではちょっと高すぎる、なんとかこれを低くすることはできんかと思っていたんだ、という。ところが、この第一次の実施設計図は精密に実測したデータを積み上げたもんやから、どこか一ヵ所で下げるというところがありませんのや。それでいろいろ工夫をして棟をちょっと下げ、ほうぼう寸法を少しずつ小さくして一メートルほど下げたんですわね。
(青山):あの模型(薬師寺金堂の十分の一の模型)をその当時、私も二、三度見せていただいたし、現在も残っておりますが、それを見ると、二層目というんですか、上層部で、柱間の数とか屋根の形式、軒の納まりぐあいなどをそれぞれ各方向別々の違う形式にしてある、あれをちょっとくわしく説明していただきたいんですが。
(西岡):あれはね、やっぱり学者の先生方の意見の相違でね、ああなったんですわ。浅野さんは妻のほうが狭いんでもう一間ふやして、ちょっとでも奥行きを広うしようという感じ。実際、妻のほうから見ますと狭い感じなんです、あの金堂。だから真東のほうから見れば、塔が二つあるように見えるというんで、少しでも幅を大きく感じさせるために、そういうふうに考えられたんですけどね。
(青山):それには柱もふやすわけですね。一筋多く。
(西岡):ええ。そのほうが木組みのうえではぐあいがいいんです。真中一つよりも、柱二本にしたほうが木を組むうえではぐあいがいい。内部の組み方が。ところが太田先生なり大岡先生なり、いろいろな先生方の意見では、それはどうもおかしい、と。下の柱から上の柱は少しずつなかへ寄って立っていくのがふつうやと。ところが一間ふやすと、上の柱のとおりが外へ寄ってしまう。それでは格好が悪いという意見です。だから、模型の東西の妻は、その二つの意見によって形式を違えてつくってあるんです。そして結局は一本抜いて一間へらした形式で建てることに決定したわけです。模型ではそんなにわかりませんけれど、実際にやっぱり出来上がってみると、一間少ないほうが安定感があります。こまこまするとコチャコチャしすぎてかえって悪いですな。

中略

(西岡):屋根の形式は、大岡先生は玉虫厨子にならって錣葺きにと、白鳳は錣葺きやろというんで錣葺きを主張されたんですけど、法隆寺の金堂も、学会では以前は錣葺きやということになっていたんですけれど、やっぱり入母屋であった。だからだいたい法隆寺の金堂も白鳳やし、これも白鳳やから入母屋のほうがいいんじゃないかということで入母屋にした。それから妻に関しては、法隆寺の金堂が非常に参考になっとるわけですな。そして設計の段階で同時代の、いまの海竜王寺の五重小塔とか白鳳前後の建物をよく調べて、いろいろ参考にしたわけですわ。
(青山):で、模型をそれぞれ検討なさって、最後にこれでいこうという決定がなされたわけですな。
(西岡):それがちょうど四十六年の五月の中旬ごろやったと思います。最後にきまったのが。そのまえに東京の三越で模型が展覧されて、そこで委員会が開かれ、棟の高い低いとか、柱間を増やすかどうかとかいうことが問題になって、そして、五月の十六日に現地でもういっぺん委員会をやろうというんで、それまでに一メートル下げた図面を引いとけというんで、大急ぎで一メートル下げた図面を引いて見てもらったわけです。そこで最終的に決定したわけです。
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