〜社寺建築☆美の追求 大岡實の設計手法  大岡實建築研究所
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興福寺国宝館(奈良県奈良市)

明治8年に取り潰した興福寺の細殿(ほそどの)食堂(じきどう)跡に、昭和33年に完成した「興福寺国宝館」

この国宝館は興福寺に残る日本文化史上貴重な仏像宝物類を安全に収納するための収蔵庫として建設された。設計の経緯については、興福寺刊行の収蔵庫竣工記念小冊子「興福寺」(昭和三十四年三月十日)の中で大岡實が述べている「興福寺収蔵庫の建築について」に詳しいので少々長くなるが下記に引用する。
「いよいよ設計に取りかかって意外であったことは、興福寺の寺域は非常に廣いようであっても、いざとなると建物を建てるべき敷地が非常に少ないことであった。そしてその何處の地を選んでもそれは主要伽藍の中である。もっとも考えてみれば、明治維新の際主要伽藍地しか寺有地として残されなかったのであるからこれは當然のことである。しかし主要伽藍地の中に新に建物を建てるとすれば、その建物の形態は實に重大であって、絶対に興福寺伽藍の風格を失うものであってはならない。あらゆる条件を考慮に入れて熟考した結果は、主要伽藍地内に建てるのであるならば、それは舊堂宇の復原がその様式として最適であるとの結論に達したのである。とくに昭和初年に興福寺伽藍の復原的研究をおこない、奈良時代南都七大寺中、興福寺がもっとも正確に創建の規模を知り得る寺であることが判明して以来、奈良朝の代表伽藍としての興福寺主要堂宇の復原的復興は永年の念願であったので、根本方針をこれに定めた。さらにその復原すべき建物を考えてみると、數多い興福寺の佛像・寶物類を収納するためには廣大な面積を必要とするのであって、それには南都七大寺中最大の規模であったと言い傳えられている食堂(じきどう)細殿(ほそどの)を復原することが規模の點から適當であり、また、その位置関係も建設後の管理の面から最適であると考えたので、食堂・細殿を舊地に復原するということを原案としてきめたのであった。」
学位論文として「興福寺伽藍配置の本邦伽藍制度史上における地位を論ず」(昭和17年)に取り組んだ大岡實の、この設計に対する重大な意気込みが感じられる内容である。
「興福寺食堂・細殿の平面が、発掘調査(寺より奈良國立文化財研究所に依嘱して行われ、私も参加した)によって正確に判明するであろうことは豫見されたところであり、事實その通りで平面は正確に復原することが出来た。ただし計量尺が前述のごとく奈良尺であるため、柱間の寸法が現尺では端数が出る。餘り細かい柱間寸法尺をつけておくことは、工事施工上不便であるので、多少整理して寸単位でおさまるように訂正した。また、柱の徑は残存礎石上面の圓形の造り出しから推定することが出来た。次にやや正確に知り得たのは軒の出の寸法で、それは基壇及び雨落溝が発見されたからである。これは非常に幸いであった。次にはその位置の問題であるが、復原の立場からいえば舊柱位置に建てるのが好ましいことはいうまでもない。しかし一方その遺蹟も亦重要な意味をもつものであり、かつ今回の調査の結果非常によく残っていることがわかったのであるから是非とも保存したいのであって、そのため新に建設する建物の柱をおのおの舊礎石の中間の位置に建てることを考え、西南に約半間ずつ、すなわち東西及び南北方向にそれぞれ約五尺ずらせて建設した。」と遺蹟の保存を念頭において新築建物の位置が決められた経緯が述べられている。
「さて建物の形態であるが、奈良時代創建の建物の形を考える資料としては「興福寺流記」に簡単な記載があるだけで詳しいことは判らない。しかし幸いなことには、簡単であるが古圖があって中世の姿を知ることが出来る。すなわち食堂は入母屋造で、細殿は切妻造である。この古圖は江戸時代のものであるが、その形は治承炎上後、養和年間再建の堂を畫いたものに相違ないのである。さきに述べたようにこの鎌倉初期再建堂は、創建時の形式によって建てられたと考えられるので、その形によることとした。なお、食堂が入母屋造であることは、今回の発掘調査からも考えられるところである。そして今回の建設にはこの食堂・細殿二棟の建物を、内部では連續して一堂として用いるようにした。というのは奈良時代にはこのように前後に二棟の建物を接近して建て、それを連結して内部を一堂として使用する形式の建物が相當に行われ、この種の堂を「双堂」(ナラビドウと呼ぶのであろう)といったことが判っているからである。ただし興福寺食堂・細殿の場合は、二つの建物の間に最初から雨落溝があったらしく、二棟別々になっていたと考えられるから、この點では厳密な意味の復原から少しはずれるが、収蔵庫としての収蔵面積を確保する意味からこの双堂形式をとることとした。」と連結した双堂形式のプランを採用した経緯に言及している。

斉藤昌昭氏撮影

左手が細殿、右手は食堂の復原
立面図/上段:右側面図、下段:食堂背面
国宝館正面/細殿正面
平面図/立面図(細殿正面)
細殿側面
食堂側面
断面図
左手は細殿、右手が食堂
細殿妻詳細図
上記屋根の右から棟桁、指桁、側梁の躯体図
食堂妻詳細図
屋根伏図
食堂と細殿取り合い部明り窓及び排水溝拡大図
食堂と細殿屋根取り合い詳細図
同上

両屋根先端部分の雨除け板は後年のものであろう

軒廻り詳細図
斗拱詳細図
食堂軸組スケッチ
なお、遺跡の保存についてはさらにこう述べている。
「遺蹟の保存については新造の建物の柱位置を舊柱位置よりおのおの西南へ半間ずらせたことはすでに述べた通りであるが、遺蹟全體は基壇の内部を地下室風にしてこの内部に保存することとした。これは遺蹟のために外箱を造ったことになるのであってすこぶる良策と考える。奈良時代の基壇に使用されている凝灰岩の如きは、露天に放置したのでは急速に風化する性質のものであるから、この方法は保存の點から適當であり、かつ遺蹟管理の面からも條件がよい。従来遺蹟の発掘調査が行われたものも調査後は埋戻してしまって、記録以外は、再び見ることが出来ない。これは真の意味での文化財保存の観點から遺憾であると考えていたのであるが、今回の方法は遺蹟の状態をいつでも見ることが出来る上に保存の目的も達し得られるのであって、遺蹟保存の一つの解決方法を示すものとして新機軸を出す意圖のもとに行ったものである。なお、新造の建物を半間ずらせたため遺蹟が新基壇の外になった部分については、箱状に基壇の下部を延ばしてその中に保存する方法をとった。

次に遺跡と新築建物との位置関係図を添付した。
遺跡と収蔵庫との関係図/平面図
同上断面図
ここに大岡實が書いた収蔵庫配景図(西北望)なる計画案のスケッチが残っている。
また、国宝館の設計に当たっては何案もの検討が行われたことは言うまでもない。(下記にその一つを示す)
第4案とある
ところで、興福寺ではこの国宝館の他に「仮本堂」、「菩提院大御堂」そして中金堂の再建案を設計している。
まず、仮本堂(木造)についてみてみよう。
仮本堂は文政2年(1819年)に再建された中金堂(仮堂)の荒廃が酷くなり使用に耐えられなくなってきた為、昭和50年(1975年)に裏側の講堂跡に建てられた。元々は不要になった薬師寺旧金堂(室町時代後期、寄棟造、桁行9間、梁行6間、本瓦葺)を改造移築したものという。また、それに伴い役目を終えた中金堂(仮堂)は平成12年(2000年)に解体された。(現在、中金堂は創建1,300年の記念事業として平成27年(2015年)に向けて再建中である。なお、中金堂(仮堂)に安置されていた本尊は仮本堂へ、その他の仏像の多くは国宝館に移されたという。)
仮金堂/右斜め前方から(上段)、右側面(下段)    共に斉藤昌昭氏撮影
次に菩提院大御堂(木造、内陣のみRC造)についてみてみよう。
興福寺菩提院大御堂復興工事報告書によると「興福寺菩提院大御堂は天正8年(1580)建立の仏堂だったが傷みが激しく建て替えられる事になった。工事はS42.5〜S45.3に行なわれ、内陣を鉄筋コンクリートとし外部に旧来の木造部分が残された。その工事の設計監理を大岡博士が行なっている。」とある。

外部は室町時代そのままに残され、内陣部分はRC造で再建された/下は平面図

平面図(興福寺菩提院大御堂復興工事報告書より引用)
断面図/RC造部分がみてとれる(興福寺菩提院大御堂復興工事報告書より引用)

向拝部分断面図(興福寺菩提院大御堂復興工事報告書より引用)

年月 西歴 工事名 所在地 工事期間 助手 構造設計 施工 構造種別
昭和30.10 1955 興福寺 国宝館 奈良県奈良市 昭和30.10〜32.06 松浦弘二 小野薫・安藤範平 奥村組 RC造
昭和41 1966 興福寺 菩提院 奈良県奈良市 昭和41 松浦弘二 松本曄 大庫建設 RC造
昭和46 1971 興福寺 仮本堂 奈良県奈良市 昭和46〜50 奥義弘 大庫建設 大庫建設 木造
 
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さて、最後に中金堂再建案についてふれておこう。
「大岡實建築研究所作品目録」によると昭和49年には中金堂の基本設計(SRC造)が完了している。ただし、建設の実施は行われず、先に述べたように近年になって他の設計者の手によって現在建設中(木造)である。
ここでは40年近く前に計画された興福寺中金堂の設計案をみてみよう。
立面図
平面図
断面図
屋根見上げ図/上層(左)、初層(右)
各図面で鉄筋コンクリート造であることがみてとれる。
なお、第一案と書かれた大岡實の直筆の図面も残されている。
また、大岡實の直筆の興福寺主要伽藍復原図も残されている。
興福寺主要伽藍復元図とあり、上が正面図、下が側面図となっている
興福寺中金堂院中門回廊復原設計図とあり、上が正面図、下が側面図となっている
興福寺南大門・中門・廻廊再建平面図とあり、上部は南大門立面図である
このようにみてくると大岡實の興福寺伽藍への思いが感じられる作品となっていることが分かるのではなかろうか。
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