〜社寺建築☆美の追求〜 大岡實の設計手法  大岡實建築研究所
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清澄(きよすみ)仏舎利塔(千葉県鴨川市)
この仏舎利塔は千葉県鴨川市清澄にある日蓮宗大本山清澄寺(せいちょうじ)の本堂の150m奥にある。清澄寺は久遠寺、池上本門寺、誕生寺とともに日蓮宗四霊場とも呼ばれ、日本山妙法寺がここに仏舎利塔を建設することになったようだ。

安房小湊駅で降りる。(のどかな駅周辺である)ここから清澄山へ向かう。
清澄寺仁王門 清澄寺大堂
清澄寺本堂の裏山へ進んでみると仏舎利塔が見えてくる。
正面に回ってみる。
     
基壇上からは房総の海が見える/手前の建物は日本山妙法寺の道場
各部詳細1 各部詳細2
各部詳細3 各部詳細4
欄楯(らんじゅん)が廻る
守護物の獅子が鎮座する
欄楯外側に施された蓮の花を模した六葉複弁蓮華文

左上から時計回りに説法釈尊像、降誕釈尊像、降魔成道釈尊像、涅槃釈尊像

さて、ここでこの仏舎利塔のデザインについてふれておきたい。
大岡實は「釧路仏舎利塔」を端に発し、国内はおろか世界中に数多くの仏舎利塔の設計にに乗り出すのであるが、インド仏舎利塔の基本形式が上部の細部までわかる遺構の調査にインド及びスリランカ(セイロン)を旅行した結果、仏舎利塔の原始形式における全体の形を確実に知りうるストゥーパの資料は以下の四種であったという。
@ カルーラの石窟内の小ストゥーパ(インド)
A スワット渓谷出土の小ストゥーパ(インド)
B アマラバティのストゥーパのレリーフ(インド)
C ルアンウェリーの小ストゥーパ(スリランカ/セイロン)
清澄仏舎利塔はこの中のCのルアンウェリーの小ストゥーパ(スリランカ/セイロン)をモデルにしたもので、実現した他の作品としては仙酔峡(熊本)、清澄(千葉)、美浜(福井)の仏舎利塔他がある

仏舎利塔の由来とその変遷/田子の浦仏舎利塔落慶記念出版より

大岡實は新版仏教考古学講座/雄山閣の中でルアンウェリーの小ストゥーパについて次のように述べている。
「この塔は紀元二〜三世紀のものと言われるが、これも一石から彫り出されていて(相輪は別石であろうが、同時の制作であることは明らかである)、確実に原形を保存しているものであり、しかも造形的に見て、全体のバランス、塔身(覆鉢)の曲線など美しい。」

大岡實の仏舎利塔作品の中ではこのデザインの仏舎利塔が最も多い。それは日本山妙法寺の藤井日達上人がスリランカ形を志向していたことが大きな要因であると思われる。ちなみにこのデザインの仏舎利塔として最初の1967年に落慶法要と相成った仙酔峡仏舎利塔(熊本)について藤井日達上人から「宝塔中の宝塔である」と賞賛されたという。(『創建』通巻10号/日大工学部建築学教室より)
なお、@、A、Bの資料については末尾を参照のこと。
仏舎利塔建設に携わった聖人のお墓だろうか
日本山妙法寺の道場/「大岡實建築研究所作品目録」によると昭和52年に「清澄山日本山道場」(RC造)を設計しているが、中止となっており、この建物になってしまったようだ。
年月 西歴 工事名 所在地 工事期間 助手 構造設計 施工 構造種別
昭和41 1966 清澄 仏舎利塔 千葉県清澄山 昭和41〜45 松浦弘二 松本曄 直営工事 RC造

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参考ホームページ
http://www.geocities.jp/stupacaitya/gensolist/nanpousiki.html
ここに当時の写真が残っている。
前列左から二人目が大岡實、三人目が松浦弘二
さて、この清澄寺の近くに誕生寺があり、そこに仏舎利塔があるというので見てみることにした。
清澄山から下りて誕生寺近くの海辺を少し行くと下の写真のような所に至る。
この右手の通路を登って行く。
海を背にして登る。
山道を行くと突如として仏舎利塔が現れる。
何となくどこかで見たようなデザインである。
「昭和47年」、「日達」という文字が刻まれており、日本山妙法寺の仏舎利塔であることが分かる。「大岡實建築研究所作品目録」にはこの仏舎利塔は載っていないが、大岡實建築研究所と日本山妙法寺の永年に亘る関係から推測すると、大岡實建築研究所の図面が利用されて建立されたのかもしれない。
参考資料
@、A、Bの資料
@ カルーラの石窟内の小ストゥーパ(インド)

新版仏教考古学講座/雄山閣より

仏舎利塔の由来とその変遷/田子の浦仏舎利塔
落慶記念出版より

大岡實は新版仏教考古学講座/雄山閣の中でカルーラの石窟内の小ストゥーパについて次のように述べている。
「このカルーラのものは蓮の葉を形どった傘が残っていて、当初の形を知り得る。これは現地に傘の残る唯一のものであるが、傘の遺品はサンチやサルナートなどによく残っていて、カルーラのものと同形式であったことが考えられ、これが一つの基準形式であったことを知り得る。しかし、これらは石窟内のもので極めて小さく簡単化されていて、このままの形を拡大して屋外に建てたのでは形にならない。」
A スワット渓谷出土の小ストゥーパ(インド)

仏舎利塔の由来とその変遷/田子の浦仏舎利塔
落慶記念出版より

新版仏教考古学講座/雄山閣より

大岡實は新版仏教考古学講座/雄山閣の中でスワット渓谷出土の小ストゥーパについて次のように述べている。
「紀元前二世紀頃と言われるが、一石から彫り出されたもので(相輪は別石であろうが、石質が同じで工作も同時であることは確実である)、後世手の加わった部分は全然ない。インドの古塔で完全に全形を立体的に知り得る唯一の例である。ただし、この塔はガンダーラ地方に入ってかなり変化発達し、基壇が幾重にも重なり、傘蓋も上下に重なっている。なお、この塔よりさらに基壇が発達し、層塔形になった小さな焼物の塔も出土している。」
B アマラバティのストゥーパのレリーフ(インド)

新版仏教考古学講座/雄山閣より

仏舎利塔の由来とその変遷/田子の浦仏舎利塔
落慶記念出版より

大岡實は新版仏教考古学講座/雄山閣の中でアマラバティのストゥーパについて次のように述べている。
「マドラスの近くのアマラバティにあった塔で、紀元前一世紀に創建、紀元後二世紀に大増築された直径五〇メートルにおよぶものであったが、惜しくも十九世紀に完全に破壊されてしまった。しかし幸いなことに、この塔の姿を薄肉彫にした石の板が、塔の装飾として用いられていて、それがかなりの数残っている。しかもその薄肉彫の石板は細部を綿密に彫刻してあるので、全体の復元はさほど困難でない。ただこの塔は装飾が非常に多く、かつ四面にアーヤカ柱と称する五本の石柱が立つ特殊な形式であるが、これと全く同じ形式の塔を彫刻した薄肉彫の石板が、アマラバティから余り遠くない、ナガルジュナコンダからも多数出土しているので、この形式がこの地方に一般的であったことを知りうる。」


なお、Aのスワット渓谷出土の小ストゥーパ(インド)をモデルとした作品には王舎城(おうしゃじょう)(インドのラージギル)他、Bのアマラバティのストゥーパのレリーフ(インド)をモデルとした作品には奥多摩仏舎利塔(別名帝都仏舎利塔)がある。
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