〜社寺建築☆美の追求〜 大岡實の設計手法  大岡實建築研究所
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増上寺 大殿(東京都港区)

東京タワーに負けないだけの華麗にして雄大さを誇っている

「大岡實は設計活動の中盤以降、川崎大師本堂を皮切りに、全体を伝統的社寺形式で建てながらもコンクリート造としての合理性を求める設計態度を採るようになった。増上寺本堂はそのような態度を発展させ、独自の形式を完成させるに至った作品である。」(「建築史学者・大岡實の社寺建築設計」という研究課題で、初めて大岡實のコンクリートによる社寺デザインを取り上げた、横浜国立大学大学院の山田なつみ氏の修士論文より)
大岡實はこの設計に当り、「建築東京」の中で、この地は「隣に三十(めーとる)のプリンスホテルがあり背後に東京タワーを背負った環境で単層にしたのでは、出来上がった本堂が谷間に潜ったようになることは火を見るよりも明らかなので、絶対重層にしなければならないと主張し通した」と述べている。
また、この本堂の場合も平面は法要他の関係から正方形に近くなってしまうので「正面と奥行が殆ど等しい平面に一つの屋根をかけた場合、特に入母屋(いりもや)の場合は、覆いかぶさったような感じになって、落ち着きがあって、引き締まった形は得難い」が、それは「正方形に近い平面に単層の入母屋の屋根を冠するので、どうしても妻の破風が大きく重苦しくなって、いかに入母屋の形を工夫しても古代のような引き締まった落ち着きのある屋根はできない」と述べている。(「建築東京」より)
そこで大岡實は、後方内陣(ないじん)部分の柱間二間分を葺き下ろしにして、上層の入母屋の屋根のかかる部分の奥行を縮めて形を整えることとなった。そうすることで横長の平面に入母屋の屋根を冠することとし、入母屋の妻の部分は比較的小さく、引き締まった落ち着きのある屋根としたのである。
そして「入母屋自体の形についても、私は玉虫厨子(たまむしずし)に見るような、いわゆる錣葺(しろこぶき)の屋根が意匠的に非常に優れていると考えている。錣葺の場合、上方の部分は矩勾配(かねこうばい)(45°)に近く、下方の部分は四寸〜五寸の緩い勾配で、その結果は、上方の屋根は屹立性が強く、鋭い感じを持っているが、周囲の勾配の緩い屋根が、これを受けて、安定感を与えるのに役立っているのであって、極めて巧みな意匠であり、今回も錣葺を採用した」のである。(「建築東京」より)
こうして重層の錣葺入母屋造本堂が実現した。
昭和50年6月の建築画報「増上寺本堂の建築」では「安定感があり意匠的に優れている錣葺の手法を採用した」と述べている。
また、「錣葺は上屋根と下屋根の一体性をもたせるために、屋根面に僅かなねじれ面を造る工夫をして納めた」とも述べている。

軒の出は深く、優美にして雄大な軒反(のきぞ)りとなっている

妻飾(つまかざ)りは二重虹梁大瓶束式(にじゅうこうりょうだいへいづかしき)

正面立面図

側面立面図

さて、斗拱(ときょう)挿肘木(さしひじき)形式を用いるのであるが、大岡實は昭和50年6月の建築画報「増上寺本堂の建築」の中で「差肘木(さしひじき)の手法を用い、これを持送(もちおく)り風に取扱って軒を支え、随所に簡単な繰形(くりがた)を整えた」と述べている。これまでのくりぬきのある雲形(くもがた)のデザインから、より大仏様が強調されたと思われるくりぬきの無い形状で、繰形のある挿肘木に繰形のある持ち送りをつけたデザインとなっている。
また、尾垂木(おだるき)を斜めにせずに水平に扱って変化ある形に整えている。(大岡實は施工面も考えて水平にしたと述べている)
昭和50年6月の建築画報「増上寺本堂の建築」では「真に差込まれた感じが出ない欠点を是正するために最下部の肘木は長押(なげし)で受けた」と述べている。

大仏様(だいぶつよう)を進化させた挿肘木

上層の挿肘木の拡大図/尾垂木も水平になっている

断面図

形は法隆寺金堂などに使われた雲肘木のイメージを踏まえながらも大仏様の雰囲気が強調された挿肘木となっている。また鎌倉時代の挿肘木がその雄健であるがゆえに粗放であったことが、軽妙さが常に好まれた日本人の美意識に馴染まずにその後は採用されなくなっていったのであるが、その点についても良く考慮され、力強さを持ちつつもあくまでおだやかで、優美なデザインとなっているのではなかろうか。
このように、「永年の経験を生かして後世に残る記念的建築を造ることが使命」と臨んだ増上寺大殿では、引き締まった落ち着きのある屋根と挿肘木形式の組物が洗練化され、コンクリートに適した伝統的社寺建築の表現として、大岡實建築研究所の独自の手法が確立した作品と捉えてもよいのではなかろうか。
ここに、建設当時の写真が残っている。

鉄骨建方(たてがた)作業中

原寸場(げんすんば)にて模型で検討する大岡(みのる)(左から二人目)と松浦弘二(ひろじ)(左端)

原寸(げんすん)作業で指示をする松浦弘二(中央)と原寸師(げんすんし)の越川辰蔵(たつぞう)氏(左)及び大林組の早川氏

本堂のスケッチ

大岡實博士文庫書類資料目録U(新築設計関連資料) 川崎市立日本民家園編より

ところで、大岡實は高欄(こうらん)について昭和50年6月の建築画報「増上寺本堂の建築」の草稿の中で次のように書いている。
「外部の高欄(手すり)も苦心設計しておいたのを経費がかかり過ぎると言って勝手に変えようとしたので急遽簡単なものを設計したのであったが、これを全く無視して別な形のものをつけてしまったので力強さを失っている。特に上層周囲の高欄は、上下層の中間にあって重層建築の形を引き締める役をする重要な部分であるのに、全く威厳のない意匠のため、全体のまとまりに破綻を来たしているのは残念である」
設計図と実際の建物を見てみよう。

この高欄(二層目)のデザインの方が全体が引き締まった感じを与える

高欄(二層目)のデザインが設計者の意図と違っている

これは「日本の建築(法隆寺金堂の造形)」の中で、「ある意味では装飾となり、一方では全体の形をひきしめる役目をはたしているのが、一階の屋根の上にある手すり(高欄)である。これは和服の場合ならば帯にあたり、女性の洋装の場合であれば、ガードルに相当するのである。着物を着て帯をしめない姿はだらしがないが、帯をしめればきちんとする。法隆寺金堂の場合も、胴体の中ほどで帯を作って、形をととのえ、中央がくびれ過ぎた感じになるのをふせいでいる」と述べて、高欄の重要性を説いている。その意味で上記のような関係者との意思の疎通の欠如による失敗には忸怩たる思いがあったことであろう。
しかしながら、この増上寺大殿はこれからも大岡實建築研究所の代表作として人々に日本人の好む伝統美を語り続けていくことであろう。

昭和46年4月16日に起工式が執り行われ、昭和49年11月10日に落慶式が執り行われている。
年月 西歴 工事名 所在地 工事期間 助手 構造設計 施工 構造種別
昭和46.05 1971 増上寺 大殿 東京都港区 昭和46.05〜48.11 松浦弘二 日新設計 清水・大林組 JV SRC造
 
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インターネットより

増上寺ホームページ http://www.zojoji.or.jp/
なお、文中の鉤括弧(かぎかっこ)の部分は文中で示した資料や大岡實著作並びに寄稿他から引用したものです。
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