〜社寺建築☆美の追求〜 大岡實の設計手法
 大岡實建築研究所
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田島美穂について

□ 追記; 田島美穂(たじまよしお)と松浦弘二
田島は松浦よりも5才年長であり、共に富山県東砺波郡の生まれである。
田島と松浦の出会いがはっきりとしているのは、1950年に田島が双亞(そうあ)建築に入社した時である。
松浦は戦時中の清水組での上司:杉本正一が設立した双亞建築に在籍していた。
清水組北支支店においては天津出張所に配属され、日本人居留地で天津神社社殿新築工事に従事して
いる。註1
その時田島は家族と共に居留地に住まい、天津神社造営奉賛会技師としてその場にいた。註2
監理者と施工者の関係であり、当然顔を合せていると想像できるが、確たる資料はない。

ではそれ以前はどうであろうか。
1923年に関東大震災により、東京築地の本願寺が壊滅した。復興にあたり本堂の設計者は、伊東忠太に決まった。
富山県の建築請負業者であった松井組は、震災復興を使命とし東京への進出を決めた。指揮をしたのは、東京帝大で伊東忠太の教えを受けた15代松井角平である。まもなく京橋に東京出張所を開設した。
伊東は1928年に帝大を退官して早稲田大学教授となり、築地本願寺本堂の設計を進めていく。
伊東は、先代の14代松井角平を9代伊藤平左衛門とならび社寺建築の名工と称賛しており、その関係もあってか築地本願寺本堂の工事を松井組が請け負うことになり、1931年起工式が執り行われた。

田島は1928年に松井組東京出張所に入社した。築地本願寺に携わった記録はないが、本堂竣工が1934年であり、翌年の1935年松井組を退社している。
見方によっては、築地本願寺本堂の設計と工事の期間のみに松井組に在籍したことになる。

松浦の父、愛一郎は松井組の棟梁で、築地本願寺本堂の工事に従事している。
松浦の兄、(かず)(田島と同年)も松井組の一員で愛一郎と共に上京した。
松浦本人はまだ年が至っていなかった。
1934年には松浦も上京し、愛一郎と一の親子3人で伊東忠太の指導による湯島聖堂仰高門の再建工事に従事した。註3
翌年の1935年まで、田島と松浦は松井組として東京にいたが、面識があったかどうかは不明である。

なお、大岡實は東京帝大で伊東忠太の講義に感銘を受け、建築史家・建築家となった。
浅草寺本堂再建の設計者選出には、伊東の後押しがあった。註4
15代松井角平は大岡の先輩であり、親交があった。また松浦を年少時から知っており、後に大岡實建築研究所に在籍してからも顔を合わせていたようだ。註5



註1 松浦弘二自叙伝より

註2 田島美穂氏履歴書及び田島美穂氏のご家族へのインタビューより

註3 松浦弘二自叙伝及び「松井建設四百年のあゆみ」より

註4 浅草寺「昭和本堂再建誌」より

註5 松浦弘二からの口伝による
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