〜社寺建築☆美の追求〜 大岡實の設計手法
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大岡實建築研究所 |
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松浦弘二 自叙伝 |
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私は昭和5年3月に井波町立尋常高等小学校高等科3年を卒業した。その後間も無く働きに出て6月頃より昭和12年7月に日支事変により応召されるまで大工をしていた。主に松井組の社寺建築に従事したのであるが、それは父が松井組で社寺棟梁をしていたし兄も大工として父と共に仕事をしていたこともあったからである。
兄は後に早稲田高等工業学校を苦学の末卒業し、佐々木建築設計事務所に入りサラリーマンとなった。数年後、黒板工業所に職を替え40代で工場長となりその後取締役在任中に病魔に侵され昭和31年1月に胃癌のため死去した。
父はもっと早く昭和14年11月15日にやはり胃癌で死去している。
私が日支事変のため召集されるまでの7年間に従事した工事は井波町清都酒店の山下にある倉庫の新築工事に始まり井波町山見の川島邸及び清水邸新築工事と続いたがこれらは住宅建築であり山見の森清さんに付いて習った。以後は松井組で社寺建築に従事し富山県東砺波郡柳瀬村の開発神社社殿新築工事、富山県小杉町の小杉神社社殿新築工事、富山県氷見市小泉村の泉光寺本堂屋根替え工事、同じく氷見市田町の田町神社社殿と氷見市布施寺本堂天井張り工事、次に東京都で湯島聖堂仰高門・入徳門・築地塀・お水舎の新築及び改築工事、富山県井波町瑞泉寺鐘楼堂、同じく井波町明蓮寺本堂、誓立寺本堂、西別院山門の新築工事と続き、最後は富山県上新川郡南加積村眼目立山寺本堂新築工事に携わった。
そして最も暑い時期の7月27日に召集を受け、7月30日金沢市第九師団山砲隊に入隊した。その日は好天気で暑い日だった。雨天体操場(講堂)にてその日のうちに新品の軍服装備を整えた。初めて一ツ星の二等兵軍人となり長町の民家に宿泊し二、三日間は長町小学校にて編成準備で忙しい毎日を過ごした。そうして建築輸卆隊要員となり編成で一分隊の第二班に編入した。班長は中山上等兵であり石動の人だった。
応召した日から二日目だったか、井波から母が来て下され入隊時の私物や衣類等を渡してくれた。その際母は中山班長に挨拶をしておられたのを覚えている。
暑苦しい毎日を金沢山砲隊にて訓練を受けた。新しい編成の小山部隊は隊長以下321名だった。25名一班で12班、即ち300名の補充兵(未教育者)に班長以上は既教育者(現役兵役修了者)つまり上等兵14名、伍長4名、准尉2名、隊長(少尉)1名の合計321名である。
一ヶ月間の基礎的な軍事訓練を終えて昭和12年8月24日金沢市を出発した。出発の日程は内々に知らされ、肉親だけには葉書きを出すことが出来た。(このように見送りを許したのは最初だけで間も無く取り止めとなった)出発の日に父と母が金沢駅のホームに雑踏の混乱の中を我が班隊を見つけて列車の窓から見える所まで近づいてきて見送ってくださった。父が母の手を引っ張りながら雑踏の中で離れ離れにならないようにしっかり手を掴んでおられた姿が一生の別れとなってしまった。今もその姿が目に浮かぶのである。
金沢を出て広島に着き江波町に民拍した。宇品港を9月3日に出帆、故国を離れた。6月5日、釜山に上陸し京城、平壌と民拍しながら9月12日鮮満国境(安東)を通過し満州に入った。奉天駅では列車内で宿泊した。9月15日満支国境(山海関)を通過し、いよいよ敵地に入った。満州も他国ではあるがそれほど緊張感は無かったが山海関を過ぎてからは敵国であるという意識も高まり、夜も武装をしたまま寝る日々を過ごす事となった。
約一ヶ月位かかって天津兵站部に着き、部隊の任務は北支那方面軍経理部に所属することになり歩兵部隊の前線基地に於ける宿舎・野戦に於ける倉庫・火葬場その他の木造建築に当たる臨時構築物を造ることになった。金沢山砲隊にて編成された時、兵5名に一組の大工道具一式の入った箱が渡されていたので任務は大略みんな承知していた。戦線とは云え、至急の命令ばかりで大変だった。これが隊長以下300名の十二班編成小山部隊の使命だったのである。任務の行動範囲は北支方面軍の行くところ全域に亘った。天津から間も無く北京に転進し、初めは北京大学の学生宿舎を本部の定位置としたが後に石家荘に移動し民家を使用した。部隊は仕事を軍経理部の命令に依って施工していくのであった。私の最初の任地は固城鎮駅で京漢線守備隊宿舎の建築だった。又、京綏線、張家口近くの懐来駅宿舎等の建築をやっているうち保定の軍経理部出張所勤務を命ぜられた。そこで部隊の本部要員として復員するまで勤務することになった。建築資材の管理と帳簿整理等を主とした任務で六ヶ月ほどさせられたが、保定襲撃に遭い初めて銃撃を受けて弾の飛び交う暗闇の中を戦った気持ちは今も忘れられない。出張所は経理部軍属一名と歩兵二名、トラック運転手二名の計五名の少人数であることが心細いことであったが偶々、保定駅を夜半に敵が襲ってきた時は駅が100メートルほどの近くにあるため本当に恐ろしい思いをした。弾が電線に当たって響く音を聞きながら真夜中に武装を整える間も友軍はどうしているのかと待ち遠しかった。それでも30分位で銃声は遠のいていった。その後約半年保定出張所にいたが石家荘へ部隊本部が転進してきたのを機会に本部要員の命令が出た。石家荘本部に勤めることは部隊の中心でもあって何かと事務的な用が多くなり陣中日誌や業務詳報の制作、浄書、命令伝達などの任務を命ぜられそのまま部隊の最後までやることになったのである。北支方面では戦況はまだ日本軍が連戦連勝のころであったが三年近くなるので召集兵の部隊は内地帰還となった。昭和15年6月5日に北支の塘沽港を出港し帰国の途に着いた。
6月13日に祖国、宇品港に着いた。消毒その他も無事終えて部隊は金沢山砲隊へ向かった。金沢駅から山砲隊原隊までを隊長(小山昇三)は乗馬で先頭を行き、その後を本部要員が続いて市内を堂々と帰隊した時の情景が今も偲ばれる。万歳の歓呼の旗が打ち振られ、本部要員として私はその先頭を歩いたがこんな歓呼の声は、召集を受け井波町を出発した情景に似たものであった。
山砲隊に着いて復員・除隊の準備は多忙であったが兎に角、無事帰還したことがうれしい。また、除隊の日の昭和15年6月17日に善行証書を授与されたことも忘れられない喜びであった。このような晴れがましい復員状況は間も無く取止められて秘密の裡に事が進められるようになっていったのである。
第1回復員・除隊後一ヶ月ほど休養をして昭和15年7月、北京に在った清水組北支支店に入社するため渡航した。これは北支軍にあって軍経理部保定出張所勤務の折、出張所の所長だった木村技師が清水組北支支店の工事長であった島延雄さんの早稲田大学の後輩にあたっていたので、その紹介により復員後再渡支を約束して帰国していたからであった。
先ず支店に着くとすぐ大同出張所に配属された。生まれて初めてサラリーマンを経験することになった。大同地区では陸軍病院砲兵隊兵舎等レンガ造りの建物を見習った。そのうち天津出張所へ勤務になり天津では日本居留民国の天津神社社殿新築工事、天津軍人会館新築工事、天津日本商工会議所新築工事などに従事した。そのうち蒙彊に近い宜化の龍烟鉄鋼製鉄所の集会所その他新築工事の現場へ出張を命ぜられ昭和19年4月24日まで勤務した。数ヶ月した頃の昭和19年8月に河北省宜化で現地召集された。再度の応召である。入隊先は山西省大同北門外にある駐蒙軍輜重隊(若松部隊)であった。そこで初めて馬を扱うことになったが経験が無いので全く困った。建築輸卆隊としての経験のみで輜重兵としての教育は受けていないので大変面食らった。まず馬に触ったことも無いのである。輜重隊は挽馬にて軍の荷物を運ぶことが本命であるから班長になったものの何も分からず本当に困ったのである。幸いに部下の兵隊たちは現役兵で挽馬をずっと習得し実践をくぐって来ている。私は伍長で班長でもあるが何も分からないということを班長代理であり現役上がりの小池兵長に打ち明け、小池兵長に殆ど任せて助けられながら過ごした。上官も召集兵の班長と分かっていたのでやかましく言わなかったので助かった。
そのうち、馬に乗ることも必要なため乗馬の練習に引き出されて少しその気になったが最後まで乗る技術は覚えられず、ある時乗馬で隊列を行進中に馬の首が前に下がって前方へ投げ出され落馬してからはすっかり自身を失ったのである。
一年ほどしてから駐蒙軍独立混成第四旅団(坂本部隊)へ転属を命ぜられた。八路軍が勢いをつけている蒙彊地区平地泉に在る坂本少将の歩兵部隊である。そこでまた困った。現役歩兵で編成された田中隊の班長要員となってしまった。小生は元々歩兵ではないので歩兵としての教育訓練は受けていないし何も分からないのである。前の輜重隊の時と同様のことなのである。しかし伍長で班長であることは間違いないので、この時も現役上がりの豊島兵長を代理としたがよく助けてくれた。私は飾り班長だったかもしれない。しかし班長として命令するツボは心得ていたし、また私の命令でも上官と思うからかよく皆兵隊は従ってくれた。
そしてだんだんに戦局はおかしくなり昭和20年7月末頃大同に駐留している第百十四師団部隊は北方からのソ連の状況が会報で知らされるようになりソ連参戦後は鉄道の橋梁爆破、道路遮断と北京北支方面へは勿論、進むも退くも出来なくなった。毎日の司令部会報受領については刻々とソ連の戦車群が南下して来るのを伝える。部隊では戦車粉砕の特訓をしてはいるが全く勝算が無いのである。そのうち命令会報がはっきり届かなくなった。私たちは最後の日を幾日後かと夫々が考えるようになっていた。8月に入ってますます隊の動きが不規則になり朝夕の点呼、食事の掛け声がやけに営内に響く。やけくそになっていたのかもしれない。何事も味気なく唯うつろな眼で聞いたり見たりそして惰性で食事をしているようでもあった。
敵が見えるのではない。肉体が痛むのでもない。それでも我味方の劣勢が状況判断で何と無く判って来ている。そうした環境下にあってどうすればよいのか、悶々とするしかない。司令部からの命令に従っていくしかないのであろうがそれがもどかしい毎日であった。死がすぐそこにやってくるという自覚をどう受け止めていけばよいか本当に迷っていたのである。
そうしたある日、ソ連軍の戦車がどんどん南下していて今日はこの辺まで来たとか明日はどのあたりだというようなことが命令会報受領係の伝令から聞かれるようになった。吾々は情報が何も分からぬままだが本部から漏れる話を総合すると京綏線の鉄道爆破、道路破壊などまた山西省への南下も遮断され日本軍の蒙彊地区部隊はすべてどうにもならない包囲網の中にあるとのことを察するに及んで急に寂しさと一大決心をするとともに覚悟へのもどかしさが駆け巡った。いつの日か決死の戦が来るがそれは幾日後かそれまでの毎日の訓練はどんなにするのか只々分からないまま上官の命があるまま行動せねばいかんのだろうと考えてみる位であった。そんな状況の日が続いた8月15日の夕方、軍装をして陛下のラジオを聴きに行った上官達の話振りから、そしてはっきりと隊長から「戦争は終わった」との司令部からの命令会報受領の内容を聞いた時は正直言ってほっとした気持ちもどこか頭の中をよぎったし、突撃訓練の猛烈さから逃避出来たという安堵の気持ちが沸いたのも事実である。今から思い出しても死神から開放された安堵の気分を現わしたのだったろうか。
このようにして山西省大同で終戦を迎えたのだった。そして次の日からは敗戦の兵つまり支那正規軍(蒋介石軍)の捕虜となったのである。
8月も終わり頃、太原に本部を置く平井部隊の池田隊へ配属替えさせられて大同から神頭へと移り、神頭駅の警備に当たることになったがこれは蒋介石側の先兵として八路軍(毛沢東軍)への警戒のためであった。
昭和21年の1月に入っても夜中に警戒巡察に出た戦友が5人も八路軍と遭遇して合戦となり死亡している。全く日本人として犬死だったと今でも残念に思う。
昭和21年3月故国に復員するまで七ヶ月現地北支山西省にあって沿線警備についているうちに早い部隊は内地に帰還しているとの噂が耳に入って来るようになってきた。毎日の僅かな食料で栄養失調になるくらいであったが何とか皆頑張っていた。昼食などはじゃがいものふかしたのが3〜5個小さいものばかりだった。それでも病気になってしまえばそのままおしまいだ。こんな田舎の駅警備隊では手当てのしようが無いのでそれは皆分かっているので何とか頑張り通した。
2月の中頃になって帰還出来る順番が来たとの報せが太原の本部から届いた。こうしてようやく帰還の日が来たのだが太原から河北省の塘沽港まで貨物の無蓋車に乗せられて帰える途中武装解除のため丸腰の吾々から腕時計や万年筆などの持ち物を強奪する支那兵が何人もいた。皆はそのために憤慨もしたが敗者であるのでどうにもならなかった。
昭和21年3月1日塘沽港を出てから船は順調に故国へ向かった。そして3月5日、佐世保に着き上陸した。国破れても山河ありで久しぶりに懐かしい日本の土であった。敗戦の故国であったが多くの出迎えの人々が幟を立てて会社の表示をしている中に清水組の旗を見つけることが出来た。帰還兵の中にいるであろう清水組社員を温かく迎える人達がいたのだ。それが大変嬉しかった。その人に尋ねたら会社はちゃんと残っていて仕事をしているとのこと、そして東京の本社を訪ねるように教示してくださった。帰国してもすぐ就職の保証がされていたのである。
佐世保で部隊解散となり帰還兵用の列車で各自故郷に向かった。昭和21年3月10日であった。故郷井波に帰って夜9時半か10時頃だったか鍵が掛かっていたので真教寺側から窓を叩くと母が起きて来て「誰ですけ」と云う。「弘二や」と云うと「ホンマケ」と急にウキウキし吃驚して玄関のガラス戸を開けてくださった。連絡の方法も無く、突然帰ってきたからビックリした事だったろう。しかし両方とも嬉しさ一杯だった事は申すまでも無い。その喜びの顔が今もありありと浮かんでくるのである。
一週間ほど経って清水組本社へ出頭し配属を聞くと千葉営業所要員だとの事なのでひとまず一ヶ月ほど休養を取ってから任に就いた。先ず千葉地方裁判所新築工事及び東京海上火災千葉支店新築工事に従事した。昭和22年10月頃、杉本正一氏から懇望されて清水組を退社し杉本工務店の開業に参画した。杉本正一氏は以前、北支清水組天津出張所に勤務していた時の上司で天津神社社殿新築工事の主任であった関係で今度独立するのに来てほしいとの話があったわけである。初めは大阪市で開業してみたが思いは東京にあったのでまもなく東京に移転した。営業陣を強化すべく学識者、天下り式を採ったが結果的には失敗した。
東京に移るのをけじめに社名も双亜建築株式会社とした。私は工事長として働いたが仕事の受注が出来ず、戦後雨後の筍の如く出来た工務店は整理される宿命でもあった。しかしその間東京市で東京女子医科大学附属病院病棟壱棟新築工事、小林産業東京支店社屋新築工事その他を成し遂げている。(この間、昭和24年4月2日斉藤佐紀子と井波町の実家にて結婚している)
昭和24年末頃、大岡先生が法隆寺火災の責任を感じてか浪人同様の生活だったとかで小野薫先生の紹介で双亜建築株式会社に入社され工事受注に力を入れられ、富山市光厳寺本堂、京都市醍醐寺消防署や大徳寺消防署等の工事が入った。遠方ながら外注形式を採用して現地の施工を進め、終わっているが兎に角、殿様商法になり結果は閉社せざるを得なかった。(双亜建築株式会社は昭和25年末までは存在していた模様)
昭和25年半ば、大岡先生の自宅に勉強部屋増築の手伝いに赴き先生と二人で造り上げた。そのまま先生の近所の落合邸、また知人の岡邸、相川邸などの新築工事を私が設計施工させていただいた。私が出来る部分はなるべく手掛けて外注を少なくする事を心掛けた。昭和26年6月頃になると大岡先生の設計受注があって先ず京都市右京消防署新築工事の設計であった。それが誘い水のようになって次々と社寺建築(宗教建築)を主とした受注が続くのである。その後の設計監理した各所の掲載は「大岡實建築研究所作品目録」に記してある。 |
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