〜社寺建築☆美の追求〜 大岡實の設計手法
 大岡實建築研究所
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霊友会弥勒山 伽藍一式(静岡県賀茂郡東伊豆町)
伽藍全体/左手は遠笠山

奈良瓦宇(小林)制作の竣工写真より

大岡實は昭和25年半ばに「大岡建築研究室」を立ち上げ新築設計活動に入ってから約10年後に、伊豆の遠笠山において上の写真のような大規模な伽藍設計の機会に巡り合うこととなる。
この作品の紹介として、大岡實が施主の霊友会の行事で発表するために用意したのではと思われる草稿(霊友会弥勒堂一郭の建築について/昭和38年3月3日記)の中で、設計の経緯について詳しく述べているので、ここに引用しながら本稿を進めることとする。

「霊友会弥勒堂一郭の設計のご依頼があったのは昭和34年の春であったと記憶する。会の大体の構想を承って、頭の中で二、三の案を考えて見たが、聞くところによると海抜1000米の地で、後方に遠笠山をひかえているとのこと、一般の平地の場合とはかなり条件が異なっているようであった。その敷地に関しては5万分の1の地図と、余り鮮明でない航空写真があるだけで一向に敷地環境のイメージが頭に浮かんで来ないので、まず敷地の状況を見るべく遠笠山に向かったのは5月半ばであった。陽春5月の山登りとあってはさだめし暑いであろうと思って薄着をして行ったのであるが、道路は高野建設の工事が約7割程度出来たころで、ブルで押したばかりのもの、数日前の雨で崖崩れがあり、自動車は現在の霊友橋のはるか手前でストップ、約7キロ以上の道を横なぐりの雨を突いて弥勒堂建設地まで登山した。しかし、現地に着いてはみたものの、あたりは一面の霧で何も見えず、全くこの調査は徒労に終わり、しかも雨は下着までしみ通り、帰って同行2人が北川の温泉に30分入っても身が温まらなかったという結果に終わってしまった。(中略)その後約半月、再度の敷地調査は晴天に恵まれたが、現地に着いて見ると背よりも高い一面の藪の中に炭焼の道が通っているだけで容易に敷地全体の地形及び高低の状況がつかめない。同行3人、いろいろ考えた末、遠笠山の八合目にわれわれが通称「はち巻」と称している水平に山を廻っている道路がある。それでこの道路まで登って俯瞰する策を立てたのであるが、この「はち巻道」からも林にさえぎられて、なかなか、見ることができない状況、とうとう適当な木を見つけて、木登りをしてやっと敷地の全体の状況を見ることが出来た。しかし、敷地全体の測量図がない。不鮮明な航空写真と対照して見当をつけた。結論は、現在弥勒堂、講堂の敷地となっている中央の台地を中心の敷地として遠笠山を背にして建てる以外にないということであり、目標になる二、三の樹木をマークして調査を終わらせ、われわれが見当をつけた中心部の伐採をすることとして下山した。」

(下線は引用者による/以下同様)

筆者も平成24年9月にこの大伽藍を見学する機会に恵まれ、初めて現地を訪れたのであるが麓は晴れていたのだが車で約30分登るにつれて霧中となり、生憎のスチューエーションとなってしまった。聞くところによると冬には1メートルを越す積雪がある場所とのことで、今更ながらに当時の建設に携わった人々の苦労に思いを馳せることとなったのである。
霧中での伽藍内見学の様子
遠笠山を背にして建つ伽藍

斎藤昌昭氏撮影(2001年撮影)

(斉藤昌昭氏は元竹中工務店の社員で、現場担当としてこの霊友会弥勒山をはじめ、聖光寺本堂他多数の「大岡作品」の施工に携わっている)

遠笠山を伽藍から見下ろす

(竣工当時の写真)

さて、草稿の続きを見てみよう。

「このようにして敷地環境が頭に入って、まず頭に浮かんだことは周囲の風景が非常に雄大であって、小規模なスケールの小さい建築は全然適しないという事であり、且背景に遠笠山があり、上から俯瞰される場合もあるので、高い建築でなければならないと考えた。日本建築(に限らないが)で高い建築といえば「塔」の建築である。日本の塔には三重塔、五重塔、七重塔、多宝塔等がある。日本では五角以上の4面を有する堂を円堂と称している。これは木造建築で、円の平面を作ることは工作上不便があるので、五角(五角の建築は実際存在せず、実際は六角か八角である)以上を「円」と考えるのである。円は円満の相をあらわし、実際造形的に見ても変化があり、四角よりもやわらか味を感ずるのであって、私は八角の平面の建築が好きである。それでまず、中心の建築は「八角三重塔」とすることが適当であるという考えがはっきり頭の中で出来上がった。次には前述のスケールの大きい建物、具体的に言えば、規模の大きい建物をいうことであるが、弥勒尊像一体を安置するために、弥勒堂を法外の規模にすることは不合理である。ところが幸、弥勒堂前面には約1000人を収容する講堂が要求されている。それで、前記の八角三重の弥勒堂の前にドッシリとした講堂を建てるのが一番よいと考えたが、弥勒堂と講堂が各々独立してポツンと建っていたのではまとまりがない。それで、この両者を廻廊で連結するときは両者が一体となって、一つの建築群としての美を発揮することになるのであって、この案がまず最良と考えられたのである。且廻廊を以て弥勒堂、講堂を連結することは弥勒堂の前に広い一区画の場所ができ、そこは外界から隔絶した「聖地」を形成することになるのであって、弥勒堂の尊厳を一層高くする意味も兼ね備えていて好適である。飛鳥奈良朝の伽藍には、この意味から金堂の前、又は周囲には必ず廻廊がある。そして、この廻廊の柱が並んだ姿は造形的立場からも実に美しいのである。しかし、古い寺院の廻廊で残っているのは法隆寺位で、今ほとんど残っていないため、実際この景観は見られない。私は上記の宗教建築としての尊厳の意味から、又私が研究して感得した飛鳥奈良朝の廻廊の美しさは、いつの日かこれを再現してみたいと考えていたことでもあり、この案を採用することを決心した。これで根本的な構想がまとまった。それでまず、小さなスケッチを書いて見たが大体頭の中で考えたことは見当ちがいでないし、造形的な形態としても大丈夫まとまりがつくという見通しがついたので、やや整った図面を書いて会長先生にお目にかけた次第であった。」

このように、永年研究し感得した自分の理想形としての飛鳥奈良朝伽藍を実現することができる大きなチャンスが巡って来たことになる。
伽藍配置図
伽藍立面図/この当初図面では地盤はフラットになっている
弥勒堂と廻廊立面図
弥勒堂平面図
伽藍内/弥勒堂と廻廊、左手が講堂

斎藤昌昭氏撮影(2001年撮影)

伽藍の外側から見る

菊川工業制作の竣工写真より

廻廊

斎藤昌昭氏撮影(2001年撮影)

廻廊内部

斎藤昌昭氏撮影(2001年撮影)

「しかし、いよいよ会長先生にお目にかけるときは、いささか心配であった。というのは最初会長先生にお目にかかって決まった構想とは相当かけはなれてしまったからである。しかし、結果は私のスケッチを御覧になるなり「これで結構です」と即座に案が決定したのである。私は非常にうれしかったと同時に安心した。上に書いたように、私は私なりに順序を追って、最善なりと考えてまとめ上げたのである。そして、文章に書けば簡単であるが、実際、小さなスケッチをまとめ上げるにも敷地との大きさの関係、周囲との調和、特にこの場合は高低差の問題等を考慮して、これを一つの造形的なバランスのとれた形態にまとめ上げるには相当の苦心と時間を要しているのである。しかし、今度の場合は比較的途中での迷いは少なく、スムーズにまとまった。従って私には、これが最善なりとの信念が次第にかたまってきていたのである。このようにしてまとまった案が、全然だめということになる場合、それは施主と設計者の意気が合わないということであって、そのようになると、その後まとまったものはどうもあまり成績がよくないものである。逆に今度の場合のようにして、非常にスムーズなスタートを切った場合は、その後の実施設計に対する私の創作意欲はいやが上にももり上がるのであって、事実現在はり切った精神のもとに工事が進められている。」

当初案がそのまま受け入れられ、気分良く創作意欲が全開していく状況が良く読み取れるのではなかろうか。

「次に御依頼の趣旨の一つに弥勒堂は永久に残る立派な建築にするようにという点があった。現在では永久建築としての構造の点から考えると、骨組に鉄骨を用いた鉄骨鉄筋コンクリートが最良であり、これは決定的な事実である。しかし、その仕上げ方法については、現在工費のない場合はモルタル(セメントが主材料)系の仕上げにするのがもっとも簡単な方法であり、次にはタイルとか、又は人造塗料で仕上げるのが普通である。しかし、この様な材料はその永久性において十分でない。それに比べて天然の良質の材料、例えば良質の石材はたとえ風化しても、又風化したなりに味のあるものである。私は前から永久性を要求される建築には、構造として堅固な鉄骨鉄筋コンクリートとし、主要部分は天然の良質の石材を用いた建築が、30年、50年を過ぎたときに真価を発揮するであろうことを考えて、造ってみたいと思っていたのであるが、全体をこの方法でまとめる機会がなかった。今回は私が永らく考えていたことを実行にうつすことにしたのである。そしてその石材としては他に類のないほど美しい肌をもつノルウェー産の花崗岩を用いることにしたのである。もちろん、講堂、廻廊までもこれで造ることは余りにも贅沢であるので、講堂、廻廊の主たる外装は私の現在経験する範囲でコンクリート外面の塗装としてもっとも適当と考えられる塩化ビニール系の塗料を使用したが、下のコンクリートは打放しのもので、普通の場合の様に佐官が塗って形を造ったものでないから、何年かして剥落したときは外部だけ塗り替えればよい様に考えて施工してある。」
このように、永らく考えていたことを現実の業務として実施できるという幸運を得ることとなった。

「唯、私が初め考えていたのとかなり変わって来た点は、私ははじめ石材を用いる以上、石造建築特有の、重々しく、且ゴツイ感じの建築を目指していたのであり、幸、私は昭和32年にヨーロッパの殆んどの国と、インド、セイロン、カンボヂャ辺りの本格的石造建築を一貫して見て来て石造の本質的な美しさが頭の中に焼きつけられていたので、非常な好機と考えたのであるが、実際に本設計に取りかかって見ると、ヨーロッパ其他の石造建築は心から石で積み上げられたものであり、今回は鉄骨鉄筋コンクリートに石材を取り付けるという、構造的には全く本質的に異建築であるため、実際の工作の制限等から、純石造建築の美しさをそのまま表現し難い点があるのと、私が数十年研究し、又その美しさの真髄が頭に焼きついているのは、日本の木造古建築、ことに飛鳥時代、奈良時代の剛健にして雄大、しかも洗練し尽くされている建築であるため、いつの間にか日本建築の味が全面的に出てしまったということである。といって、決して日本建築の手法そのままではなく、鉄骨鉄筋コンクリート造に適する様に色々工夫し変えてあることは言うまでもない。しかし、一年や二年の付焼刃の石造建築より永年私の腕にしみ込んだ日本建築の味の方が、私の作品としては良かったかも知れないと考えている。最初は軒裏まで全部をノルウェー産の石で造るつもりであったが、工事が始まってから竹中工務店の園田常務の意見で、軒先に石材を用いることは凍害その他の工作上の点を考慮すると完全な施工に自信がないから、軒の部分は青銅にしたいとの申し出があった。私は最初は全体統一的な感じを出すためには同一材料を用いるべきであり、石と青銅との調和の点が心配であったのでご反対したが、試作された青銅のものは色彩も美しく調和に欠ける点は先ずなかろうという感じがしたのと、青銅自身は又良質の金属材料で、将来変色した場合は緑青が出て、又これも美しい肌の感じをもつところから、異色ある感じの建築になるであろうことを考えて同意した次第である。」

ここでは斗拱までは石材で造るが、軒裏の垂木等は青銅(ブロンズ)で作ることとなり、その将来は緑青が出て異色ある感じになるだろうと述べているが、半世紀経った現在の状態はどうであろうか。以下、その写真や資料を見てみよう。
弥勒堂

斎藤昌昭氏撮影(2001年撮影)

弥勒堂軒廻り詳細図
詳細図拡大図
弥勒堂

斎藤昌昭氏撮影(2001年撮影)

弥勒堂

斎藤昌昭氏撮影(2001年撮影)

弥勒堂

斎藤昌昭氏撮影(2001年撮影)

弥勒堂

斎藤昌昭氏撮影(2001年撮影)

弥勒堂軒裏/柱、長押や斗拱等はノルウェー産の赤い花崗岩だが、垂木等はブロン
ズ製で緑青が出ている

斎藤昌昭氏撮影(2001年撮影)

弥勒堂軒裏/斗拱は赤い花崗岩、丸桁や垂木は緑青の出たブロンズとまさしく異色な感じではあるが、古色な色合いは周りとも違和感なく、大岡實のその思惑通りに
なっているのではなかろうか

斎藤昌昭氏撮影(2001年撮影)

ちなみに、竣工当時の写真を添付しておく。
左の写真で判るように竣工時の垂木(ブロンズ)の色は斗拱等の花崗岩と同じ色調
で仕上げられている

(竣工時の写真)

/右の写真のようにエッチング加工されたブロン
ズは石材の色に限りなく近い色で製作されている

(菊川工業製作)

さて、上記のような見直しの他、講堂の形態でも再検討が行われ手が加えられている。

「最初の設計から少しく変わった点は、整地工事が進むにつれ最初目で見たときより、弥勒堂一郭の敷地が、意外に高低差が甚だしかったことであって、最初の設計通り、講堂、弥勒堂を一平面の地盤にすると、更に莫大な土量を動かさねばならず、且弥勒堂背後の石/崖が非常に高くなって、弥勒堂が穴の中に落ち込んだような感じとなるおそれがあるので、左右廻廊に段違いをつけたのと講堂前面の柱を延して、その高低差の調節をしたのである。結果的に見ると、この方が変化があり、すくなくも講堂前面の形態は、最初の案よりはるかに良くなったと考えている。」
講堂側面・廻廊立面図
弥勒堂・廻廊立面図/講堂部分の地盤面より上がっているのが分かる
講堂正面・翼廊立面図/講堂前面の柱を延して、その高低差の調節をしている
講堂断面図
講堂・翼廊

菊川工業製作の竣工写真より

講堂・翼廊/背後に弥勒堂

菊川工業製作の竣工写真より

講堂・翼廊

斎藤昌昭氏撮影(2001年撮影)

講堂・翼廊とそれに続く廻廊/左手に弥勒堂

斎藤昌昭氏撮影(2001年撮影)

講堂・翼廊/伽藍内より見る

奈良瓦宇(小林)制作の竣工写真より

講堂・翼廊/伽藍内より見る

斎藤昌昭氏撮影(2001年撮影)

講堂
講堂
講堂
講堂
講堂/霧中で先が見えない
講堂から翼廊を見る
「この全体計画は、前に述べた様に霊友会の弥勒堂を中心とした道場として、必然的に要求される機能を私が建築的にまとめ上げたものであるが、伽藍の中心となる堂を塔にして、その前面に講堂を配するという配置形式は、弘法大師が真言宗の中心道場として高野山に計画したときの形式が、これと同様塔を中心の建物とし、その前に講堂を建てる計画であったと考えられる。そしてこの精神を継承した堂塔が大阪の勝曼院に残っている。ただ真言宗の場合は塔の形式が「多宝塔」と称する二重屋根の少しく変わった形式であるのが異なっているだけである。勿論宗教的な道場としての機能から、同一の形式が生まれるのは何の不思議もないが、全体をまとめたとき、ふと私の気の付いた点を書いておく。又遠笠山の敷地全体が、すばらしい景観であることは今更言うまでもないが、敷地の形式が半ば出来て遠笠山を背景にして、地形に応じて色々工夫して、堂塔の軸線を大体決定して、後方をふり返ると、丁度伽藍の正面に三原山の噴煙の上がっているのを見たときは、実にうれしかった。丁度正面に永遠の御燈明が上げられているのである。今は地形を切り取り、又は埋めて整地したから弥勒堂、講堂等は楽にあの敷地に入っているように見えるが、弥勒堂、講堂、廻廊を、堅固な地山の上に建てるためには、ギリギリであって、今の配置を自由に変えることは出来ないのであり、実にピッタリとおさまったという感じである。霊友会があの土地に道場を選ばれた直観的判断のすばらしさに敬服した次第であると同時に、私の設計が余り的をはずれたものでなかったという自信を深めたのであった。」

そして更に建築史家でありながら新築設計者としての意気込みが続く。

「今回の設計は弥勒堂、講堂、廻廊が一塊りとなって建築美を構成する、すなわち建築群としての美しさをねらったものである(ヨーロッパの建築に比較する必要もないが西洋建築で言えば、中世のゴシック建築の構成に通じるものである)。この場合、先ず大切なのは個々の建物の大きさ及び形のバランスである。次には各建物が整った美しい形でなければならない。弥勒堂にして見れば、一重、二重、三重及び相輪の大きさが、完好の比例をもっていなければならない。更にこの形を生かすためには、各部分の比例、例えば柱、長押、垂木等の太さ、大きさの比例が整っていなければならない。更にこれを生かすためには、各部分の曲線その他の形、この場合は軒の曲線や屋根の曲面の性質等がもっとも重大で、時にはその生命を制するものであり、更に各材料の肌の感じもこれに影響してくるのであって、建築は正しく総合芸術なのである。この意味で霊友会が全体模型を作って下さったことは非常に有難かった。彼の模型によって、かなり建物の比例を修正することができた。弥勒堂は特に重要と考えて、現場で十分の一の模型を作り、各部分の比例を模型によって修正し、今造りつつあるものは、私の感覚の及ぶ限りでは、完好な比例をもたせたつもりである。」
伽藍の模型
伽藍の模型
伽藍の模型/講堂と翼廊
伽藍の模型
伽藍の模型
弥勒堂模型(縮尺:1/10)/左から二人目が大岡實、その右に松浦弘二、斉藤平次郎が並ぶ

(斎藤平次郎氏はこの弥勒堂の模型制作の指導にあたった原寸担当の技師である)

「一般の方々は、全体の設計図が出来上がると、それで凡その設計者の仕事は終了したと考えて居られるようであるが全体の設計図は設計者のアイヂィアをあらわしたものであり、このアイヂィアを具現するためには更にその何十倍かの仕事があるのであって、この細部にわたっての真剣な努力が掃われない限り絶対に優れた建築は出来得ないのである。この意味で、この仕事にかかってから私と私の助手の書いた図面は数十枚に及んでいる。そして、この図面を竹中工務店の現場において、更に実物大の図面に引延し、それをわれわれが綿密に修正して、やっと実施に至るのである。その間、設計者の神経は常に緊張して鋭い造形感覚を働かせつづけなければならないのであって、非常に精神的エネルギーを必要とする仕事なのである。最近の一つの例をお話すれば、最初、弥勒堂第一層の勾欄(欄干)は一応普通の日本風のものを書いておいた。しかし、この部分はどうしても例の美しいノルウェー産の石でやることが、建築全体の調和から見て、又建物に重々しさを与えるという点から見て、必要欠くべからざる条件と考えていた。ところが普通の日本風の勾欄は、言うまでなく木造の手法のものであって、石で造るためには、石造に適する形態に改めなければならない。それで石造による勾欄の意匠を練りはじめたのであるが、私には非常にむづかしく、この図面だけでも数十枚のスケッチを数カ月にわたって書き、三変四轉どころでなく、十何回その意匠をかえて、やっと最近十分の一の図面を私が書き上げて、今度現場へゆくとき持参する予定である。この様に申し上げると私の作品を甚だしく自賛しているようにとられては困るのであって、唯私の能力の全力を尽くしていることを申し上げたにすぎないのである。事実、熟考に熟考を重ねたものでも実際に出来ると「シマッタ」と思うことが、度々ある。これは人間のする事で当然であろう。私はいつも、100点などという成績をとろうとは決して考えていない。何とか80点位とりたいと頑張っているのである。大体以上のようにして弥勒堂一郭の建築は現在工事が行われているのであって、一般のビルヂィングの建築のように或部分の一定の形式がきまれば、機械的に繰返しで出来てゆく建築とは全く異なるものであることだけは認識していただきたいと思う。」
弥勒堂の足元にノルウェー産の石による勾欄が巡る

斎藤昌昭氏撮影(2001年撮影)

弥勒堂勾欄

斎藤昌昭氏撮影(2001年撮影)

弥勒堂勾欄/霧中での撮影で若干不鮮明であるが石造の雰囲気は見てとれる
弥勒堂勾欄

斎藤昌昭氏撮影(2001年撮影)

弥勒堂勾欄のレリーフ

斎藤昌昭氏撮影(2001年撮影)

「最後に宿舎の設計についてであるが、宿舎の位置はかなり離れているが、やはり中心の建物との調和が勿論必要である。しかし、宿舎の建築まで瓦を葺いた屋根の建物を造ることは、第一に重苦しい感じが全体にただよってしまう。且そのために莫大な経費を要することになるのであるが、その経費は宿舎としての機能を充たすためには何の利益にもならないのであって、これは不必要な贅沢と考えた。しかし、中心の建物が日本調であれば、宿舎にも日本調がなければならない。この主旨で私は宿舎の設計をした。宿舎はその機能から当然非常に長い建物になるのであって、形がとりにくいのであるが、この長さを利用して、水平の線を強調することを考え、これが基調となっている。しかし、水平の線を強調する場合、水平の線だけでは造形的構成は成立たない。縦の線を巧に使用することによって、水平の線が生かされるのである。ところが日本人は伝統的な建築美の観念の中に、余りに太い線を表面に出して、建物に「ゴツイ」感じを与えることを嫌う傾向があると同時に、建物全体が弱々しくなることもまた避けたいという気持ちが古い時代から一貫して流れているというのが、私が日本建築美に対する一つの主張である。そしてこの日本建築の造形感覚の表現のために多用されたのが「廂」であるというのが私の結論である。というのは廂をつけると、内部の構造柱は、表面に余りあらわれず、主として廂の細い柱が外面を構成し、建物に「ゴツイ」感じが出るのを避けられるのである。しかし、建物全体は内部にある、強固な柱によって構築されているのであるから建物が弱々しくなることはないのであって、このようなデザインをねらった日本建築が非常に多いと私は考える。(この廂を古くは裳階と言っている)それで今回も宿舎にこの造形感覚をもり込んだつもりである。すなわち、一階の部分の外部にあらわれた感じは廂であり、したがって、太い構造柱は内部にかくされている。そして二階の部分では、わずかに太い構造柱をあらわし、弱々しくなる感じを避けている。そして軒及び縁の水平線と調和させているのである。類例のない構成であるので実際出来上がったときの感じを心配していたのであるが、先日宿舎の中棟の玄関の部分のコンクリートが打ち上がったところを見ると、私の構想が或程度成功しているように思われて、ホッとしている有様である。」
敷地全体の俯瞰模型/下が宿舎
「猶、世間でよく建築が高いとか安いとか批評する場合があるが、時々この批評が無意味に近いことがあるので一言つけ加えておく。良いものを造るのにより多くの費用を要するのは当然である。ただし、そのかかった費用が実際有効に使用されているか否かに問題はかかっているのである。霊友会の場合、私は出来るだけ良いものを造る覚悟で進んでいる。ただし、無駄な費用は一銭たりといえども使ってはならないというのが技術家としての私の信念である。特に浄財を集めて建築される宗教建築について、きびしくこのことを考え、その信念で進んでいることだけ申し上げておく。」

以上、「霊友会弥勒堂一郭の建築について/昭和38年3月3日記」と記された草稿に沿ってその設計の経緯を辿った。

さて、ここに当時の工事中の写真が残っている。
鉄骨建方作業
鉄骨建方作業
後列一番右が大岡實、一番左が松浦弘二/(写真の裏面に昭和36年10月1日とある)
弥勒堂 型枠工事
仕上げ工事の様子/屋根の瓦は葺き終っている
地固めの土俵入り(初代横綱若乃花)/昭和36年11月1日
瓦の検査時の大岡實(左)と小林喜造氏(中央)/奈良瓦宇(小林)にて

(小林喜造氏は奈良の滑「宇工業所取締役で瓦作りの名工であった。)

ところで、当時大岡實が霊友会の関係者に宛てたと見られる書簡の草稿が残っており、その中で自分の後継者について触れているのでここに紹介する。

「其後はご無沙汰申上げました。度々設計費についての格別の御配慮をいただき恐縮いたして居ります。私は稀代の筆無精にて■に感謝の気持を申上げようと思い乍ら、ついつい延引を重ねまして何とも申訳御座いません。
遠笠山での工事は佐田氏と現地を訪れては考へて居ります。先般の現地調査で大体基本的な計画を完了し建物全体計画も多少変更し、今その計画で進行中であります。近く大体の地ならし工事が完了すると考へて居ります。地形に応じて多少変更しました現在の計画図を六日の日に御届け申上げます。
猶頂戴いたしました金子については色々考へました末、次の様に使はせていただくことに致しました。
私は学校を卒業しますと同時に自分の趣味であった日本の古建築の研究に専念してまいりましたが、次第にその本質が判ってまいりますと祖先の残した日本建築のすばらしさ、そしてその文化的意義の大きい事に感銘して一生懸命勉強してまいりました。しかし日本の社会は研究者に理解がなく皆恵まれないのは一般でありますが、特にこの様な地味な研究で直接産業等に関係がありませんため研究費が得られず苦しんで参りました。それで卒業後十年程してから何とかして専心研究出来る研究所を作りたいと念願して参りましたが結局は資金の問題で今にまで遂に実現いたしませんでした。
しかし今になって見ますと私が死んだ後、日本建築史の実地についての諸問題を全体的にまとめる人が今の状態では出ないことが次第にはっきりして参りました。幸、横浜国大の学生は優秀で私の指導により数人の弟子は各に研究を続けて居りますが皆雑務に追われて本質的な事が出来ず費用の関係で実際に古い建物を調査研究させることが出来ません。折角優秀な人材を抱えながら碌な事が出来ないので近年非常にあせっていた次第で御座います。
近年私は戦後出来る宗教建築が余り悪いので永年覚えた技術を社会に奉仕する意味でかなり設計の仕事をいたして居りますが皆宗教建築でありまして後世に残る仕事であり浄財を集めて建てられる建築で御座いますから私は「設計させていただく」という気持ちで仕事をしております。勿論人を使わねばならず、かなりな費用がかかりますので実費は頂戴いたしますし、施主の方に御気持ちがあれば実費以外に研究費を頂戴して居りますが、当方から特に御願しない方針で進んで参りました。
しかし前述の様な研究面の事情で御座いますので最少限度一人の最優秀な弟子を私の手元において指導しつけて専心後顧の憂なく研究させ私の真の後継者を養成したいと念願して居たところで御座いました。
費用をまとめていただきましたので先般愈々決心して「古文化財保存研究所」を起こすことを決心いたしました。その基本金として三百万円(初めの百万円は■■に使用いたしました)を定期預金にいたしました。永年の念願の研究所の旗挙をいたした訳で御座います。丁度本年私は還暦を迎へました。還暦に永年の念願が達せられたのも何かの因縁かと存じますと同時にこの念願の基礎を与えていただきました事に対し満腔の感謝をいたす次第で御座います。御礼が大変遅くなりまして申訳ありませんが私の心情御汲取下さる様、御願いをします。
今回の設計については私の最初の案を取上げていただきました事について非常に嬉しく、きっと良いものが出来、私の傑作になるだろうと張りきって居ります
今後とも宜しく御願申上げます。」

(下線は引用者による/■は読み取り不可)

こう読んでくると、霊友会の会長先生に宛てた書簡ではないかと考えられる。
そして「最優秀な弟子、真の後継者」とは、が気になるところであるが「大岡先生を偲ぶ」(財団法人 文化財建造物保存技術協会 編)に関口欣也氏が「大岡實先生と横浜国立大学」という寄稿をしており、昭和36年春頃に大岡實から「建築史研究所をつくるからその専任所員にとのお話があった」と述べている。(別ファイル「大岡先生を偲ぶ」より)

(関口欣也氏は「横浜国大の弟子の一人」で、横浜国立大学名誉教授(建築史)であった)

年月

西歴

工事名

所在地

工事期間

助手

構造設計

施工

構造種別

昭和35.05

1960

霊友会弥勒山 伽藍一式

静岡県賀茂郡東伊豆町

昭和35.05〜39.12

松浦弘二

安藤範平・松本曄

竹中工務店

SRC造

 
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参考資料
竣工時のリーフレット

(クリックすると拡大されます)

菊川工業が平成4年(1992年)の社内報に載せた松浦弘二へのインタビュー記事

(クリックすると拡大されます)

斗拱等を石材とした作品は、この霊友会弥勒山と相前後して設計された静岡県熱海市の世界救世教の神殿、伽藍(1960年/昭和35年08月)/RC造にも見られる。
ここでは垂木はコンクリート造である
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