〜社寺建築☆美の追求〜 大岡實の設計手法  大岡實建築研究所
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奥多摩仏舎利塔(別名 帝都(ていと)仏舎利塔)
この仏舎利塔は東京都奥多摩町留浦と山梨県小菅村・丹波村との県境にある大寺山山頂にある。訪れるには写真のように登山客が登るような山道を行かなければならない。登り始めて約1時間で木々の隙間に山頂の白い建物が目に入ってくる。

前方の山(大寺山)の山頂を目指す

正面に仏舎利塔の上部が見える

工事をするに当たっては別ルートに小型車が通れるだけの道を整備し物資の運搬を行ったようだが、その道も今では雑草の生い茂る所となっている。(後掲の写真参照)
ついにその全貌が現れる。
これが奥多摩仏舎利塔で、別名として帝都仏舎利塔とも呼ばれる。
数多くある大岡實の仏舎利塔作品の中でも、数少ない「アマラバティ形」をした仏舎利塔(インドのオリッサ洲にあるダウリの仏舎利塔と同形)である。
ここで「アマラバティ形」の説明をする前に、大岡實が仏舎利塔の設計を手掛けることになったキッカケについて触れておきたい。
まず、数多くの仏舎利塔を設計しているのであるが、その殆んど全ては世界平和を標榜する藤井日達(ふじいにったつ)上人が創設した日蓮宗系の新興宗教である日本山妙法寺の依頼によるものである。(姫路仏舎利塔のみ姫路市の依頼である)
大岡實は日本山妙法寺との出会いについて昭和45年の日大工学部建築学教室発行の教室報「創建」の中で次のように述べている。
「もう20年程前になるが、或る日この日本山妙法寺の一人の僧(橘上人)の訪問をうけた。今は故人になったが、私の同級生で当時清水建設の営業部長をしていた小川昌三君の紹介であったので、会って話を聞いてみると、藤井日達上人は、釧路はもっともソ連に近いところであるから是非平和祈念の仏舎利塔を建設しろと命ぜられ、そして「必ず仏縁のある人があらわれるから、捜して設計を依頼せよ」と言われたのであるが、それ以来いくら捜しても心あたりがないので、北海道札幌の清水建設の支店長時代に面識のあった小川昌三氏を本社にたずねて、「天下の清水建設であれば、できるであろうから仏舎利塔の設計をお願いする」と言ったところ、「いかに天下の清水建設でも、そんな特殊なものの本格的な設計はできるものではない。幸い自分の友人に大岡という古建築を専門に研究しているのがいるから、そこへ行ってたのめ」と言われたので設計をお願いに参上したとのことだった。しかし私は日本建築の専門家であり、印度の建築のことも多少は本を読んでいるけれども深くは知らないので、一度はためらったが、考えてみると、日本に印度建築を手がけられる者はあまりいないことも事実である。この際一つ印度建築を研究してみようかという気持ちになったので、「私は日本建築が専門だが、私にやれと言われるならば、勉強しながらでよければやってみてもよろしいが」と答えたところ是非たのむとのことだったので、できるだけ印度建築の図録を集めて、設計にとりかかった。これが私の日本山妙法寺に縁のできたはじめである。その後、藤井日達上人に直接お目にかかって、世界平和運動のことを聞き、その熱烈でしかも純真無垢な宗教的熱情にすっかり傾倒して、日本山妙法寺に協力することになったのである。」
そうして最初に手掛けたのは「釧路仏舎利塔」であり、建立の場所は釧路市内であった。第一回の訪問が昭和25年の暮れ、第二回が翌26年の八月で、このとき初めて藤井日達上人(御師匠様)にお目にかかったのである。このあたりのことは昭和60年発行の「サルボダヤ」に以下のように記されている。
「私はこのとき、自分の専門は日本建築で、インド系の建築は余り知らないが、他に適任者が見当たらないので、不束であるが勉強しながら協力させていただきますと申し上げ、さらに私の仕事について説明した。即ち自分は日本建築史の研究と同時に文部省(現在は文化庁)で日本古建築の調査と復元修理に従事している。特に昭和十四年以後は法隆寺の工事を担当し、殊に終戦後は法隆寺国宝保存工事事務所長を兼任して、法隆寺の大修理に尽力してきたのであるが、法隆寺の貫主は佐伯定胤猊下で、学識高くかつ宗教的信仰に関しては特に厳しい方であるから、私の重要な仕事の一つは、文化財保存の立場と定胤猊下の宗教的信念の立場とを如何にして両立させるかということであった。私は言辞巧みに人を説得するというような技は全然持ち合わせていないので、率直に文化財保存の立場と宗教的信仰の立場との矛盾を披露して、これに対する二、三の妥協案を提案したのであったが、殆んどの場合、その一つが採用されるか、あるいは多少修正した程度で承諾され、私の場合は余りトラブルが起こらなかった。ところが一般には定胤猊下は非常にむずかしい方だとの評判が高かったので、私が余りトラブルを起こさないのを訝る向きが多かったようである。私はこの辺りの事情を何気なく御師匠様に申し上げてしまったのであるが、後で考えると、何故このような個人的なことを初対面で申し上げたかが不思議であり、また恥ずかしく思ったのであるが、それは恐らく御師匠様の第一印象が、世界平和に対する熾烈な情熱と純粋にして堅固な宗教的信念の固まりであって、私の身心がこの強烈な力に圧倒され、宗教家として絶大な尊敬を捧げ得るお上人は定胤・日達両猊下であるとの気持ちが、私の心底に沸き上がったためであったと思われる。ところが、私の話の途中から急に御師匠様のお顔がにこやかになり、私の話が終わった途端に橘上人に向かって「そうら仏縁のある人が現れたでしょう」と言って、ご自身も非常に喜ばれたのであった。ところが私には、このときの御師匠様のお喜びのご様子が余りにも異常に感じられ、何か割り切れないものが私の心に残ったのであった。しかし後日になって判ったことは、お師匠様はいうまでもなく日蓮宗でご修業になったが、他宗にも優れたものがあるであろうとのお考えから他宗の勉強もされたのであって、古い教義の勉強に奈良に行かれて定胤猊下との邂逅となった。信仰心に燃える両猊下は忽ち意気投合、肝胆相照らす仲になられた由である。以上の話を聞いてはじめて釧路のときの御師匠様の異常なお喜びの理由が判ったのであった。以後、御師匠様の反核・世界平和運動への協力を心に誓い、仏舎利塔の建立に私の建築技術を奉仕、供養して今日に至った。」
このような経緯で「釧路仏舎利塔」を端に発し、国内はおろか世界中に数多くの仏舎利塔の設計に取り組むのである。(末尾の仏舎利塔リスト参照)
前置きが長くなったが、このような経緯で仏舎利塔の設計に乗り出すのであるが、インド仏舎利塔の基本形式が上部の細部までわかる遺構の調査にインド及びスリランカ(セイロン)を旅行した結果、仏舎利塔の原始形式における全体の形を確実に知りうるストゥーパの資料は以下の四種であったという。

@ カルーラの石窟内の小ストゥーパ(インド)
A スワット渓谷出土の小ストゥーパ(インド)
B アマラバティのストゥーパのレリーフ(インド)
C ルアンウェリーの小ストゥーパ(スリランカ/セイロン)

奥多摩仏舎利塔はこの中のBのアマラバティのストゥーパのレリーフ(インド)をモデルにしたもので、実現した他の作品としてはオリッサ(インド)州ダウリの丘に建つ仏舎利塔のみである。

新版仏教考古学講座/雄山閣より

仏舎利塔の由来とその変遷/田子の浦仏舎利塔
落慶記念出版より

大岡實は新版仏教考古学講座/雄山閣の中でアマラバティのストゥーパについて次のように述べている。
「マドラスの近くのアマラバティにあった塔で、紀元前一世紀に創建、紀元後二世紀に大増築された直径五〇メートルにおよぶものであったが、惜しくも十九世紀に完全に破壊されてしまった。しかし幸いなことに、この塔の姿を薄肉彫にした石の板が、塔の装飾として用いられていて、それがかなりの数残っている。しかもその薄肉彫の石板は細部を綿密に彫刻してあるので、全体の復元はさほど困難でない。ただこの塔は装飾が非常に多く、かつ四面にアーヤカ柱と称する五本の石柱が立つ特殊な形式であるが、これと全く同じ形式の塔を彫刻した薄肉彫の石板が、アマラバティから余り遠くない、ナガルジュナコンダからも多数出土しているので、この形式がこの地方に一般的であったことを知りうる。」

オリッサ(インド)州ダウリの丘に建つ仏舎利塔(工事中の写真)

なお、@、A、Cの資料については末尾を参照のこと。
さて、奥多摩仏舎利塔に戻ろう。
仏舎利塔の脇にはご覧のような掲示板が建っていた。

「帝都仏舎利塔」と書かれた石碑と日本山妙法寺の掲示板

掲示板には、この仏舎利塔が「東京都仏舎利塔」ということ、設計は大岡實であること、この土地は東京都のもので昔のお寺があった場所であること、そして4〜5人の信者の方々が自力で造り上げたことなどが書かれた、この仏舎利塔の上人さんの落慶式典法要の際の挨拶文が掲示されていた。
「心ある人々は、およそ、日本の平和の象徴を見ようとすれば、必ずここへ登ることでありましょう」という言葉が寄せられているが、それにしてもここまで登るのはハードです。

この仏舎利塔の上人さんが仏舎利塔を守りながら眠っている

頂部にインドにおける暑熱を防ぐ意味をもつ
(かさ)を冠する

四面にアーヤカ柱と称する
五本の石柱が建っている 

入口の前に細密な彫刻で飾られた
トラナと称する門がある

基壇に塔を囲う欄楯(らんじゅん)と呼ばれる手すりが巡る

長い間メンテがされていないのか塗装が剥がれ、かなり汚れてきている

基壇の上を周回できる基壇の上を周回できる

四面にそれぞれの仏像が鎮座する

四面にそれぞれの仏像が鎮座する

これが工事用に造った運搬道路と思われる

霧が晴れてくると眼下に奥多摩湖が見える

さて、昭和45年の日大工学部建築学教室発行の教室報「創建」の中では次のようにも述べている。
「泥縄で始めた私のインド建築の勉強も次第に地についたのであろうが、仙酔峡のときには御師匠様から「今後これが仏舎利塔の基本となるであろう」との賛辞を頂戴し、またオリッサの場合は私が関与すると仏事が見事に成就するといって喜ばれ「大岡は毘首羯摩の変化かもしれない」とまでいわれた由で、身にあまる光栄である。現在ではロンドンの仏舎利塔の完成が間近い。この仏舎利塔は、御師匠様とロンドン市議会の反核・世界平和運動が突如偶然に融合してでき上がったもので、全欧州の反核・世界平和運動の中心的象徴にするとの意気込みである。最近やっと御師匠様永年の悲願であった核廃絶の気運が、世界各地で澎湃として起こりつつある。御師匠様最後の大仏事であるロンドンの仏舎利塔が、その大きな礎となることは明らかで、御師匠様が点された核廃絶の燈は永遠に消えないであろう。私もこの世紀の大仏事の一翼をになわせていただいたことに無上の感激と誇りを覚えるのである」と述べている。
そして、「今後も御師匠様の遺願である反核・世界平和運動の仕事には渾身の力をふりしぼって立ち向かう覚悟であり、(中略)御師匠様の残された仕事なら何事でも全力を尽くす覚悟に変わりはない。「御師匠様の精神を受けつぐのだぞ」と自分自身に言い聞かせている」と、ここにいたっては、大岡實は建築を通しての反核・世界平和運動の一人の偉大なる先駆者であるといっても差し支えないであろう。また、大岡實のそのような側面を忘れてはならないのはなかろうか。
参考資料 1
仏舎利塔リスト
建立年 名称 適用 落慶
昭和30年 釧路 1959年8月21日
昭和34年 姫路名古山 1960年4月8日
昭和35年 高山(岐阜) 基本設計のみ
昭和38年 仙酔峡(熊本) 1967年8月6日
昭和41年 住吉 中止
昭和41年 札幌
昭和41年 清澄(千葉) 1969年4月27日
昭和41年 龍口(神奈川) 1970年9月12日
昭和41年 美浜(福井) 1969年7月20日
10 昭和41年 長ア 1970年8月9日
11 昭和41年 臼杵(大分) 1974年4月8日
12 昭和41年 日向(宮崎) 1970年8月12日
13 昭和43年 王舎城(インド) 1969年10月25日
14 昭和45年 仙台 1974年5月21日
15 昭和46年 渥美(愛知) 中止
16 昭和46年 オリッサ(インド) 1972年11月8日
17 昭和46年 宝塚(大阪) 1979年4月18日
18 昭和46年 舞鶴(京都) 1983年8月28日
19 昭和47年 甲府 1972年10月25日
20 昭和47年 帝都(東京・奥多摩) 1974年8月1日
21 昭和48年 金沢
22
23 昭和48年 ルンビニー(ネパール) 基本設計 中止
24 昭和48年 三里塚(千葉) 中止
25 昭和48年 田子浦(静岡) 1981年4月21日
26 昭和48年 ポカラ(ネパール) 基本設計 中止
27 昭和50年 吉野(奈良) 1976年4月16日
28 昭和50年 サンフランシスコ 基本設計 中止
29 昭和50年 掛川(静岡) 基本設計 中止
30 昭和50年 帯広 基本設計 中止
31 昭和52年 千歳(北海道) 1979年9月3日
32 昭和54年 ロスアンゼルス 基本設計 中止
33 昭和54年 ミルトンケインズ(イギリス) 1980年9月21日
34 昭和54年 佐渡 1981年5月3日
35 昭和54年 別府
36 昭和55年 ウィーン(オーストリア) 1983年9月25日
37 昭和55年 天草(長崎) 1981年8月17日
38 昭和55年 日本山妙法寺天草本堂(長崎)
39 昭和56年 多摩道場本堂(東京)
40 昭和57年 多摩(東京) 1983年5月3日
41 昭和57年 ベルリン(ドイツ) 基本設計
42 昭和58年 ロンドン 1985年5月14日
43 昭和61年 牛深(熊本)
44 昭和61年 牛津(佐賀)
45 昭和62年 大村(長崎)
46 平成02年 バイシャリー(インド) 牛深仏舎利塔と同形
47 平成03年 ナイジェリア 王舎城仏舎利塔と同形
48 平成03年 シシリー島(イタリア) 多摩仏舎利塔と同形
以上のように日本全国各地のみならず海外にも大岡實建築研究所の仏舎利塔が今も人々の反核・世界平和の願いを訴え続けている。
参考資料 2
@、A、Cの資料
@ カルーラの石窟内の小ストゥーパ(インド)

新版仏教考古学講座/雄山閣より

仏舎利塔の由来とその変遷/田子の浦仏舎利塔
落慶記念出版より

大岡實は新版仏教考古学講座/雄山閣の中でカルーラの石窟内の小ストゥーパについて次のように述べている。
「このカルーラのものは蓮の葉を形どった傘が残っていて、当初の形を知り得る。これは現地に傘の残る唯一のものであるが、傘の遺品はサンチやサルナートなどによく残っていて、カルーラのものと同形式であったことが考えられ、これが一つの基準形式であったことを知り得る。しかし、これらは石窟内のもので極めて小さく簡単化されていて、このままの形を拡大して屋外に建てたのでは形にならない。」
A スワット渓谷出土の小ストゥーパ(インド)

仏舎利塔の由来とその変遷/田子の浦仏舎利塔
落慶記念出版より

新版仏教考古学講座/雄山閣より

大岡實は新版仏教考古学講座/雄山閣の中でスワット渓谷出土の小ストゥーパについて次のように述べている。
「紀元前二世紀頃と言われるが、一石から彫り出されたもので(相輪は別石であろうが、石質が同じで工作も同時であることは確実である)、後世手の加わった部分は全然ない。インドの古塔で完全に全形を立体的に知り得る唯一の例である。ただし、この塔はガンダーラ地方に入ってかなり変化発達し、基壇が幾重にも重なり、傘蓋も上下に重なっている。なお、この塔よりさらに基壇が発達し、層塔形になった小さな焼物の塔も出土している。」
C ルアンウェリーの小ストゥーパ(スリランカ/セイロン)

仏舎利塔の由来とその変遷/田子の浦仏舎利塔落慶記念出版より

大岡實は新版仏教考古学講座/雄山閣の中でルアンウェリーの小ストゥーパについて次のように述べている。
「この塔は紀元二〜三世紀のものと言われるが、これも一石から彫り出されていて(相輪は別石であろうが、同時の制作であることは明らかである)、確実に原形を保存しているものであり、しかも造形的に見て、全体のバランス、塔身(覆鉢)の曲線など美しい。」


なお、Aのスワット渓谷出土の小ストゥーパ(インド)をモデルとした作品には王舎城(おうしゃじょう)(インドのラージギル)他、Cのルアンウェリーの小ストゥーパ(スリランカ/セイロン)をモデルとした作品には仙酔峡(熊本)、清澄(千葉)、美浜(福井)の仏舎利塔他がある。
ここに竣工当時の一枚の写真が残っている。

反核・世界平和の願いを訴え続けている

年月 西歴 工事名 所在地 工事期間 助手 構造設計 施工 構造種別
昭和47 1972 帝都 仏舎利塔 東京都奥多摩市 昭和47〜49 松浦弘二 松本曄 直営工事 RC造

赤印が奥多摩仏舎利塔のある場所

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