〜社寺建築☆美の追求〜 大岡實の設計手法
 大岡實建築研究所
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念法真教金剛寺如来堂(大阪府大阪市)

九角如来堂/左側は祈願本堂の屋根、右下側は四天王楼

念法真教総本山金剛寺は大阪府大阪市鶴見区に所在する天台系新興仏教教団とされているが、ここでは九角如来堂(二重塔/中間の屋根は裳腰(もこし))の設計を行っている。また、伽藍全体の計画も行っていたが、当時の条例の関係で認可が下りず実現はしていない。なお、その後には他者の設計にて随時各建物が建立され、平成12年には伽藍全体の完成をみているという。
「九角如来堂」(昭和44年念法真教総本山金剛寺刊行)によると当初、「大聖地内に、祈願本堂をはじめ、多くの道場が建立されたのであるが、いまだ根本の堂となるべきものの建立はみられなかった」が、昭和38年から昭和43年にかけてようやくこの九角如来堂が建立されるに至ったという。
また、その中で大岡實は「九角如来堂建立の設計並びに施工について」という寄せ書きにおいて、以下のように述べている。
「教祖の生年月日が明治十九年九月九日であり、九に縁が深いところから、九角の堂で、しかも他に類例のない変わったものを設計してほしいというのが、施主側の基本的な希望であった。九角という建築も非常に造りにくいが、これは何とか技術的に克服するとして、他に例がない変わったものとなるとなかなかむずかしい。あるまとまった形のものとするには、そう奇想天外なものは考えられない。色々案を練った末、石塔の建築からヒントを得てまとめあげた。しかし組物や軒廻りなどの細部については、奈良朝建築の、極度に洗練され、しかも堂々たる風格をもった形式を表現すべく努力した。現在この程度の規模の記念的建築としては、当然鉄筋コンクリート造りが考えられる。しかし今回の場合は特殊な事情があった。まず、この仕事の設計について、私に橋渡しをした吉岡勇蔵君は、若い時から、文化財の日本古建築の修理一筋に生きて来た人である。また工事を実際に面倒見てくれることになった奥義弘君も、新築工事も手がけてはいるが、文化財の現場で長年実際に仕事をして来た人であり、かつその配下には中岡君という極めて優秀な棟梁がいる。更に寺に所属する山本秀吉君も、かって文化財の現場を経験した木造の専門家である。私は現在新築工事は、ほとんど鉄筋コンクリートで設計しているが、元来、文化財の木造日本建築と共に生きてきた人間である。現在の建築界の状態から考えてみると、一つの工事に、上から下まで、これ程の日本木造古建築のベテランが集まるということは非常に珍しいことであり、恐らく今後再びこのような機会はないであろうと思われた。それでわれわれの間から、「昭和時代の木造建築の名品を残したい」という気運が自然に盛り上がってきた。しかし約三十米の高さの堂を、全部木構造にしたのでは建築許可の点で問題になるであろうとの考えから、骨組だけを鉄筋コンクリートとし、外部を全部木造とする方針をたて、寺の了解を得て実施した。」
ちなみに、工事関係者および業者名についての記述もある。
大岡實、松浦弘二、吉岡勇蔵、奥義弘、山本秀吉各氏の名が見られる
なお、奥義弘氏は大岡實建築研究所の作品の中で、この他に延命寺本堂(大阪府河内/木造/昭和46年)、興福寺仮本堂(奈良県奈良市/木造/昭和46年)の助手を務めている。
さて、念法真教総本山金剛寺の伽藍も見てみよう。(なお、九角如来堂以外は金剛組が設計し、鹿島建設が施工しているという)

山門

六角堂

七角堂

右手は拝殿、左手は翼楼

九角如来堂から拝殿を見る

本坊内部(壁画「西域聖地巡礼図」/田村能里子氏作)

七角堂内部

拝殿から九角如来堂を見る

拝殿から見た九角如来堂

二層目は裳腰
上層を見る
裳腰部分を見る
裳腰部分を見る
屋根伏図・天井見上図
大岡實のスケッチ

実施設計図/正面立面図

断面図

拝殿、袖廊、廻廊も一緒に計画している

右手が九角如来堂(左手は四天王楼)

左手が九角如来堂(正面遠方は四天王楼)

大岡實は前述の寄せ書きの中で次のようにも述べている。
「堂の内部は寺の中心の本尊を祀るのであるから豪華にしたいとの希望は最初からあったが、その程度は未定であった。しかし外装工事が大体終わるころになって予定通り内部を豪華に飾るという方針がきまった。このことは技術者として此上ないよろこびであった。私は基本方針を「気品ある平安朝の華やかさを再現する」点においた。装飾の手法としては、木造は極彩色、須弥壇および内陣床、框は漆塗として螺鈿をちりばめ随所に飾金具を打った日本古建築一般の装飾手法である。柱は本来極彩色にすべきであるが、コンクリートの上に彩色することの危険性と、工期のことを考えて、織物を貼ることとし、その意匠を画いて京都の竜村美術織物に製作させた。文様の意匠は宝相華を基本としたが、様式的マンネリズムにならないように苦心した。しかし、それ以上に神経をつかったのは、その粗さ、細かさの全体としての統一であった。机の上でかいた文様は現場にあてはめて見ると細かすぎたり粗すぎたりで、全体としてバランスをとるのに相当苦心した。」
九角如来堂の内部
御厨子天蓋
西陣織張内陣柱
そして、大岡實は寄せ書きの締め括りとして、以下のように述べている。
「このようにしてまとめ上げられた本建築は、変化多い形態の中に、日本古建築の優れた造形的性格を表現したもので、さらに現在計画されている拝殿、廻廊等が同様な意匠によって完成した時には、堂々たる風格をもち、かつ洗練された建築群が出現すること必定で、その輪奐の美は、近代都市大阪における異色ある風物として、名声を博するものと信じている。」
廻廊
華やかな伽藍全体を眺める

「平成の大伽藍●散華舞う甍」(平成13年念法真教総本山金剛寺刊行)より

さて、大岡實は九角如来堂と同時に伽藍全体について様々な計画案を作成したが、当時の条例の関係で認可が下りず実現はしなかったのであるが、そのいくつかを見てみよう。
拝殿正面図(案)
山門正面図(案)
伽藍側面図(案)
現在の伽藍配置図

「平成の大伽藍●散華舞う甍」(平成13年念法真教総本山金剛寺刊行)より

年月 西歴 工事名 所在地 工事期間 助手 構造設計 施工 構造種別
昭和39.06 1964 念法真教 如来堂 大阪府大阪市鶴見区緑 昭和39.06〜41.03 松浦弘二・奥義弘 松本曄 直営工事 SRC造
  
参考
大岡實建築研究所の実現した塔作品としては、霊友会弥勒山弥勒堂(三重塔、1960年/昭和35年)が最初であり、二番目がこの念法真教総本山金剛寺九角如来堂(二重塔/中間の屋根は裳腰(もこし))となる。その後は川崎大師平間寺八角五重塔(1980年/昭和55年)があり、いずれもSRC造である。
また、木造の作品であるが昭和45年〜昭和46年に法隆寺羅漢堂を手掛けている。これは奈良県の旧富貴寺(ふっきじ)三重塔(平安時代中期)の初層を単層宝形造の小堂に復元したものである。
なお、この建物は昭和46年に重要文化財に指定されている。

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ここに当時の写真が残っている。

水煙

「九角如来堂」(昭和44年念法真教総本山金剛寺刊行)より

「九角如来堂」(昭和44年念法真教総本山金剛寺刊行)より

右手は旧祈願本堂

「九角如来堂」(昭和44年念法真教総本山金剛寺刊行)より

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