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松前城(北海道松前郡松前町) |
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松前城(福山城とも呼ばれる)は北海道松前郡松前町にある。慶長11年(1606年)築城で日本における最後期の日本式城郭であり、天守や本丸御門などが現存していた。1941年(昭和16年)に天守、本丸御門、本丸御門東塀が国宝保存法に基づき当時の国宝(現行法の「重要文化財」に相当)に指定されたものの、1949年(昭和24年)6月5日、城跡にあった松前町役場からの出火が飛び火して天守と本丸御門東塀は焼失したという。
大岡實建築研究所では天守閣(櫓)復原工事、多聞塀復原工事(天守と追手門を連絡する)、搦手門再建及附帯工事を手掛けている。
復原された天守は松前城資料館としての機能を担っている。 |
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国宝指定された1941年当時の木造天守(松前町教委提供)の写真 |
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左手は本丸御門 |
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旧形に復された窓 |
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この松前城の設計及工事経過については大岡實が記した松前城再建工事経過報告書に詳しい。
「工事報告でありますが、先に少しくこのお城を設計するに至った事情を申上げます。
永年文部省に居りまして全国の古建築を調査して歩いて居りました私でありましたが、建物が少い北海道へは足を延す機会がなく、初めて参りましたのは松前城の修理問題で昭和22年頃でありました。それは現佐々木町長さんが熱心に松前城の修理に對する国庫補助を申請して居られたのでありますが、その当時は国宝保存(今の重要文化財保存)の予算が極めて貧弱で技術的責任者であった私はその増額に四苦八苦している時代でありまして、急にはお引受出来ない状態でありましたため、数年待っていただき度いと一応お断りするという実は余り有難くない役目であったのであります。しかし同時に私としては建物の実情を自分の眼で見て判断しておく必要があると考へて参った次第でありました。
その後、私は法隆寺問題で24年に文部省を休職となり約束を果さずに引籠っているうちに同年の火災という事になってしまったのであります。
桃山時代織田信長の安土の城に初った日本式城郭建築は日本風土の一つの特色ある景観でありまして、丁度ヨーロッパの各都市にい塔をもつクリスト教寺院が聳えている特殊な景観を添えているのと同様であります。ところがこの特徴ある建築が明治維新以後非常に荒されたのでありまして我々は出来る限り残った城の保存に努めて来たのでありますが、それが今度の大戰によって再び甚しい災害を受けてしまったのでありまして非常に惜しいことをしたのであります。ところが日本における最北端の日本風の城、松前城が残りましたことは不幸中の幸だったのであります。ところがその松前城もまた焼失したというので私は残念で仕方がないと同時にその焼失の責任の一部がわたしにある様な気さえ致したのでありました。それで佐々木町長さんが東京へ見えまして是非復興したいと云はれたとき言下に復興のときは私が設計して差上げますとお約束した次第であったのであります。
愈々、町長さんから具体的に設計の御依頼があったのは昭和33年の春でありました。私の生涯は日本古建築の調査と保存の仕事が全部であると云ってもよい様なものでありますから、この城を復興するならば出来るだけ元の形(創建当時の)に復興したい。そして昭和の建築であっても昔を偲び得るものにしたいのは当然のことでありまして、そこで松前城の旧形を知る資料の輯集に取かかったのであります。先づ幸に松前城が昭和16年に国宝建造物に指定されるときの大きな四ツ切の写真がありました。次に文部省に居た真田君という人の実測の図面がありました。これが完全ならば何よりもよい資料なのでありますが、完成しておりませんのと種々研究して見ますと必ずしも全部正確とは云え憎い点もありまして残念でありましたが、しかしこの図面でさ、軒の出等が大体判ったことは非常に助かったのであります。最後に私が先年参りましたときのノートがありました。勿論單に視察に来たときのノートでほんの心覚えでありますが、そのとき窓の部分は御存知の通り明治にガラス戸を入れて明らかに改造されていることがわかって居りましたので、少し板などをはずして調べた結果が書いてありました。これによって今回御覧の様に窓の形を復原出来たのであります。以上の様に細かい寸法まで正確ではありませんが全体的に見て單なる想像でなく或程度資料的に復原出来たのは幸でありました。勿論内部構造については建物を不燃焼にするため鉄筋コンクリートの構造を採用せざるを得ませんので元の構造を守ることは出来ませんでした。今一つ構造的な苦心は鉄筋コンクリートは木造に比べて桁違いに重量が重いのであります。この重い建物は到底もとの軽い木造の基礎をそのまま利用することの出来ないことは自明の理であります。今の石崖積の基壇が人工的に築いたものであることは周囲の状況から容易に判りますので少し位掘下げても鉄筋コンクリートの建物をのせる地盤としては信用出来ません。どうしても天然の堅固な地盤まで掘り下げてその上に築かなければならないと考えたのでありますが、やっかいなことに石崖が残って居ります。これは旧建物の石崖であり又史蹟に指定されている中の重要な部分でありますから当然大切に保存しなければなりませんので調査が簡單ではありません。それで周囲の地盤の状況を調査し又地元の方々に色々聞いた結果この辺一帯は余り深くないところに岩盤があることが推定され殊に天守のあるところは丘のい部分で石崖の下から数米のところに岩盤があることが予想されましたので、この岩盤まで基礎を掘下げる方針といたしました。今一つの問題はお城の石崖はどの城でも年月を経てゆるんで居りますし、前にも申しました通り木造の基礎であって鉄筋コンクリートをのせるのには到底耐えません。しかもその石崖は大切に保存しなければならないのは前に申した通りであります。そこで主要な構造柱を石崖の内面より更に内側に寄せ、石崖の裏側との間がかなりあくように立てることに致しました。皆様が一階にお入りになると四隅に太い柱が四本建って居ります。あの柱がこの天守の構造を支える主要な柱でありまして一階の壁の部分はあの柱から持出しているのでありまして石崖には全然荷がかゝらない様になって居ります。これ等の構造は構造力学の專門家である横浜国立大学助教授の安藤範平博士と相談し安藤氏が根本方針をたて、実際の力学的計算は卆業生の松本君がやって出来たものであります。構造は特に慎重を期しましたし、今申しました様に今度は岩盤の上に建物が乗っておりますので絶対安全で御座います。猶岩盤まで掘下げる際石崖が崩れる恐れがありますので石崖の下まで掘りましたときに裏側からコンクリートで石崖を補強いたしましたから石崖自体も前よりずっと丈夫になっております。勿論御存知の通り石崖の外面がかなり破損して居りましたので、割れた石等は取替えて修繕いたしましたが、出来るだけ古い感じを持たせる様努力いたしました。
そして此の様に基礎を深く掘りました結果地下室が新しく出来た譯であります。
外形で明治になってから大きく変えられたのは窓と屋根であります。窓のことは前に申しました通り大体旧形に復することが出来ました。次に屋根でありますが、大棟に鯱がのって居りましたこと、及隅棟があったことは記憶して居られる方も多く又形式上当然のことであり、且古い写真も残って居ります。唯その形、大きさについては残っている写真が古く小さくて鮮明でありませんため、具体的な形をきめる資料になりませんので、止むを得ず一般の場合から推定して復原いたしました。
猶、軒の部分については元全部銅板で包んであったことを聞きました。初期の城は別として一般には城は木部を露出しないのが普通であり夛く軒は塗込にするのでありますが、この城の場合は垂木や桁を出して居りますので銅板で包むことは当然考えられることなので、その形式を踏襲いたしました。結果は白壁と軒裏の銅の色が強いコントラストを示し中々効果がありますのは御覧の通りであります。唯昔は銅板を垂木や桁にとめるために銅の鋲を打って居たことは記憶して居られる方もあり又、大手門からもよく判るのでありますが今回これをやりますことは非常に手間がかゝるので省畧いたしました。
次は多聞塀の工事でありますが、これは火災には焼け残ったのでありますが破損が甚だしかったので取解いたのであります。その時文部省に居ります端政雄技官の断面の実測野帳がありましたのでそれを基礎にして復原いたしました。
次は搦手門でありますが、今回天守の内部に色々のものが陳列されますと、見学の方のための事務室や便所が必要であり且、天守だけでは東の方の区切がつきませんので、旧搦手門の位置に此等の目的のため建てられましたもので日本建築風にし周囲との調和する形としたものであります。
猶、松前小学校の校庭との境に塀を又、天守に夜間照明燈を附する等、環境整備をいたしましたが、この環境整備については更に今後徐々に実行される由であります。
之等の設計は私が致しましたが細部詳細及び工事現場の監督は私の助手をして居ります松浦君がいたしました。私は工事の初めた当時数回参りましたが其後公務が忙しくなりまして遠いために参られず、地元の御要望及実情に則した設計変更等私は東京で打合せるだけで現地一切の仕事は全部松浦君が致しましたことを附加えておきます。
又施工者、島藤建設株式会社は一般のビルの建築等と異って非常に面当な工事を終始熱心な研究心をもってあたり遠隔の地であるには拘らず緊密な連絡を保ち設計者の意を体しての施工は施工者として、実に立派でありまして、設計者として非常に感謝している次第であります。」 |
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(下線は引用者による/一部明らかな間違いを修正) |
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三層屋根入母屋造銅板葺/大棟鯱青銅製メラミン焼付金箔押 |
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外壁漆喰仕上/窓連子入(連子銅板包) |
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一軒垂木、出桁、腕木にて支える軒廻り総銅板包 |
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総銅板包みの軒廻り
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左から初層、二層、三層平面図 |
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立面図 |
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断面図 |
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断面詳細図 |
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拡大図 |
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地階平面図/新設塀詳細図(左上) |
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旅情に満ちた松前町の長い歴史を物語るように素朴な姿で建つ天守 |
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天守から海側を望む |
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また、ここに構造図も残っている。 |
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柱配筋リスト拡大図 |
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配筋図 |
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なお、下記は軒廻りの詳細である。 |
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同上配筋拡大図 |
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他の建物も見てみよう。 |
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今回再建された搦手門/単層屋根入母屋造銅板葺/壁漆喰仕上/受付・事務所として機能している |
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搦手門設計図 |
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焼失を免れた本丸御門(重要文化財) |
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城内から見た本丸御門 |
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より大きな地図で 大岡實建築研究所 建築作品マップ を表示 |
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参考ホームページ
http://homepage3.nifty.com/yogokun/matumae.htm
http://www.geocities.co.jp/SilkRoad-Lake/5913/theme06/003matsumae.htm |
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